【門前編】酒を悪者にしない「哲学」~「集い」「味わう」「描写」の重要性~

First part of the gate

【門前編】酒を悪者にしない「哲学」~「集い」「味わう」「描写」の重要性~

【酒を悪者にしない「哲学」の必要性】 2010年のWHO総会において「アルコールの有害な使用を低減するための世界戦略」が採択されて以来、酒類に対する考え方は、世界中で年々厳しくなっており、健康被害が喧伝され、規制は厳しくなり続けています。さらに長期化するコロナ禍で、歯止めのかからない家飲みによるアルコール依存症の問題が喧伝され、さらにさらに、「まん延防止等重点措置」や「緊急事態宣言」下にて飲食店での酒類提供が禁止され、酒類だけが悪者扱いされています。このままの方向性で進んでいけば、たとえコロナ禍が収束したとしても、酒類にとって極めて厳しい世の中が待っていると言わざるを得ないでしょう。私たち酒の業界の者はもちろん、「酒道」の道を歩もうとする皆さんや日本酒ファンの方々らとも一丸となって、酒類の規制や健康被害等についてしっかりと学びながら、酒類の健康効果等を訴えることも必要でしょうが、それだけではまだまだ弱すぎます。やはり私たちには、酒を悪者にしない、一本芯の通った揺るぎない「哲学」がどうしても必要であると言えるでしょう。私が「酒道黒金流」を創始したのも、このような流れの中で、酒を悪者にしない、揺るぎない「哲学」が必要だと感じたこともその一因となっているのです。そんな揺るぎない「哲学」を獲得するために、日本酒業界の真の存在意義について探っていきたいと思います。 【「アルコール健康医学協会」の大切な役割】 その前に、まずは「公益社団法人アルコール健康医学協会」(http://www.arukenkyo.or.jp/)をご紹介しておきましょう。「それだけではまだまだ弱すぎます。」と書きはしましたが、酒類の規制や健康被害、酒類の健康効果等についての正しい知識を獲得し、それを普及していくことは、まず大前提として大切であるからです。そして、そのために是非知っておきたい存在が、「アルコール健康医学協会」です。昭和55年7月に厚生省単独所管の社団法人として設立され、平成6年9月に厚生省(現厚生労働省)と大蔵省(現財務省)の共管となり、その後、公益法人制度の抜本的改革を受けて、平成24年4月より内閣府所管の公益社団法人へ移行しています。事業内容は、「適正な飲酒習慣に関する思想の普及・啓発、アルコール飲料に関する正しい知識の普及・啓発、20歳未満の者の飲酒の防止に関する啓発、アルコール飲料と健康等に関する調査研究、また酒類業界の自主基準に照らしたアルコール飲料に関する広告・宣伝の審査等」を目的とした事業を展開しており、設立以来40年にわたり、継続して保険医療関係者及び酒類業者等が協調し、情報誌等の刊行・配布、講演会の開催、医学情報のホームページでの提供、広告審査業務などの活動を行っています。つまり、40年間の長きにわたり現在も、保険医療関係者と酒類業者等が共に手を携えて「適正飲酒」の普及・啓発等に尽力してきているということですが、この事実はあまり知られていません。しかも、平成11年に国費支出が終了後は、酒類業界や病院等の賛助会費を主たる原資として運営されているのです。ちなみに令和3年4月1日現在の賛助会員は、次の通りです。日本酒造組合中央会、ビール酒造組合、日本洋酒酒造組合、日本蒸留酒酒造組合、全国卸売酒販組合中央会、全国小売酒販組合中央会、日本洋酒輸入協会、日本ワイナリー協会、全国地ビール醸造者協議会、(一社)日本フランチャイズチェーン協会、ペルノ・リカール・ジャパン株式会社、大塚製薬株式会社、医療法人(社団)新淡路病院、医療法人せのがわ瀬野川病院、(一社)チェリー・ブロッサム。そして、私たち日本酒蔵元が所属する日本酒造組合中央会の賛助会費は、全体の約22%を占めているそうです。また、「アルコール健康医学協会」の役員・理事メンバーには、医学界の権威がズラリと名を連ねているという点も、特筆すべきでしょう。 そして、「アルコール健康医学協会」設立に関して、いかに先見の明があったかを示す文章も、ご紹介しておきましょう。情報誌「飲酒と健康」創刊号(1981)の河野裕明氏の寄稿文です。河野氏は協会設立の功労者の一人で、我が国のアルコール依存症治療法を創始した第一人者でもあります。同氏が協会の創業の理念を端的に述べた該当部分を、以下に原文のまま引用させていただきます。「・・・欧米の歴史を調べますと、不幸な事に医療側とアルコール生産側とは常に敵対関係にありました。これは右述の如く、アルコール生産側が、アルコールの関与を共同体における有益、正常な要因としてのみ眺め、明白なその災禍を例外、少数とみなして切り捨て、また一方、医療側がその罪害を強調する余り、その存在そのものまでも否定しようとする短絡した考えに走ったための、少なくとも双方に生産的ではなかった戦いであったと思います。相互の偏見に基づく戦い程、愚かにも消耗するものはありません。従って、我国では両者がこのアルコール健康医学協会をパイプにして建設的な協力を行い、国民の健康の増進に貢献できれば、ひとり我国の幸いのみでなく、世界のアルコールの歴史に新しい一頁を印すことになると信じます。・・・」この一文(1981)に込められた理念は、後年のWHO世界戦略(2010)、アルコール基本法(2014)で規定されることとなる「事業者の責務」と、世界的な酒類事業者が酒類の広告宣伝等の自主規制を公的に誓った「東京宣言」(2006)、「ビール、ワイン、スピリッツ生産者の誓約」(2010)に遥かに先立つものであり、協会を設立した関係者達の先見の明を示したものとなっているのです。 そして、「公益社団法人アルコール健康医学協会」では、情報誌等の刊行・配布、講演会の開催、医学情報のホームページでの提供、広告審査業務等、様々な活動を行っており、詳しくはホームページ(http://www.arukenkyo.or.jp/)に掲載されていますので、是非ご覧いただけましたら幸いです。では、この項目の最後に、「アルコール健康医学協会」が推奨する「適正飲酒の10か条」(http://www.arukenkyo.or.jp/health/proper/pdf/tekisei10n.pdf)を、参考までにご紹介しておきましょう。 <適正飲酒の10か条>

➀談笑し楽しく飲むのが基本です

➁食べながら適量範囲でゆっくりと

➂強い酒薄めて飲むのがオススメです

➃つくろうよ週に二日は休肝日

➄やめようよきりなく長い飲み続け

➅許さない他人(ひと)への無理強い・イッキ飲み

➆アルコール薬と一緒は危険です

➇飲まないで妊娠中と授乳期は

➈飲酒後の運動・入浴要注意

⑩肝臓など定期検査を忘れずに

【「集いの中で酒を酌み交わす」という行為の重要性】 では本論に入らせていただきます。まずは、「チンパンジーの鏡像認知実験」を紹介しておきましょう。この実験は、「コロナ時代の哲学~ポストコロナのディストピアを生き抜く~」(大澤真幸・國分功一郎著左右社2020年7月30日発行1,300円+税)という書籍に掲載されています。これは、鏡を見たときに鏡像が自分自身だと分かるかどうかをチンパンジー相手に試したという実験です。一般にチンパンジーは、このテストに合格します。つまり鏡に写った自分の姿を自分であると認識できるのです。ところが、生後すぐに母親から引き離され、隔離された状態で成長したチンパンジーは、このテストに合格することができなかったのだそうです。ならば仲間のチンパンジーを見たことがなかったため、そうなったのではということで、隔離されてはいるものの、仲間のチンパンジーをガラス越しに見ることはできる環境で成長したチンパンジーに同じテストを試したところ、このチンパンジーも合格できなかったというのです。 ここからは、チンパンジーの自己認識や他者感覚が、接触をともなった他者経験によって生み出されているのではないかという仮説が導き出せます。おそらく、人間の自己認識や他者感覚も同じであると言えるでしょう。じゃれあうとか、肩がぶつかるとか、対峙するとか、あるいは抱き合うとか、集いの中で酌み交わすとか・・・そうした身体経験が自我、ひいては社会性の起源にあるのではないでしょうか。つまり、身体を持った人間が直に触れ合うという身体性の次元が自我や他者性、ひいては社会性に不可欠なのではないか、ということです。長期化するコロナ禍で、目下私たちが目指している非接触型の世界は、何か根本的なものが失われてしまうということです。そして、私たちがより多くの人たちと心を許して直に触れ合うというシーンは、日常の中のどこにあるかというと、それは「集いの中で酒を酌み交わす」というシーンであると言えるでしょう。「集いの中で酒を酌み交わす」という行為は、身体を持った人間が直に触れ合うという重要な行為の一形態であり、それは自我や他者性、ひいては社会性の形成に不可欠な行為だということであり、つまりは「不急」ではあるかもしれませんが、断じて「不要」などではないと断言できるということなのです。 【「味わう」という行為の重要性】 続いては、「<責任>の生成~中動態と当事者研究~」(國分功一郎熊谷晋一郎著新曜社2020年12月1日発行2,000円+税)という分厚い書籍の中から、ごく一部を紹介させていただきましょう。この書籍は、気鋭の哲学者國分功一郎氏と、障がい当事者研究の第一人者熊谷晋一郎氏の対談本です。熊谷氏は、多飲症・水中毒という、精神科病棟でよくみられる症状について語られています。この症状は、大量の水を飲んでも止められない、隔離してもトイレの水まで飲んでしまったりして、嘔吐、失禁、意識混濁などの症状が起こるほか、生命を脅かすこともある危険な状態であるといいます。そして熊谷氏は、山梨県立北病院が編み出した斬新な対応方法を紹介しています。それは「申告飲水制度」です。要するに、事前に「これから水を飲みます」と申告してもらい、冷やした美味しい水をみんなで一緒に「美味しいねぇ」と言いながら味わって飲むというもの。すると、水中毒が減っていったというのです。これをどう解釈するかというと、國分氏の「消費」と「浪費」の概念が手がかりになるといいます。 ここで國分氏の「消費」と「浪費」の概念について、少し長くなりますが説明を加えておきましょう。國分氏の代表作ともいえる「暇と退屈の倫理学<増補新版>」(國分功一郎著太田出版2015年3月13日発行1,200円+税)を参照しています。まず、「贅沢」はしばしば非難されますが、ならば人は必要なものを必要な分だけもって生きていけばよいのか、必要の限界を超えることは非難されるべきことなのだろうかと、國分氏は問いかけます。必要なものが必要な分しかないという状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状を維持しなければなりません。これは豊かさからはほど遠い状態です。つまり、必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。必要を超えた支出があって初めて人は豊かさを感じられるのです。したがってこうなると、國分氏は語ります。必要の限界を超えて支出が行われるときに、人は贅沢を感じる。ならば、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない、と。そして、「必要を超えた余分が生活に必要ということは分かるし、それが豊かさの条件だということも分かる。だが、だからといって贅沢を肯定するのはどうなのか?」という疑問に対する答えとして、國分氏は、ボードリヤールという社会学者・哲学者が述べている、「浪費」と「消費」の区別を挙げています。贅沢が非難されるときには、どうもこの二つがきちんと区別されていないのだというのです。國分氏いわく、「浪費」とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することだといいます。浪費は必要を超えた支出ですから、贅沢の条件です。そして贅沢は豊かな生活に欠かせません。さらに、「浪費」は満足をもたらします。物を受け取ること、吸収することには限界があるからです。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできません。つまり、「浪費」はどこかで限界に達する。そしてストップするのだと。人類はこれまで絶えず浪費してきました。どんな社会も豊かさを求めたし、贅沢が許されたときにはそれを享受しました。あらゆる時代において、人は買い、所有し、楽しみ、使いました。未開人の祭り、封建領主の浪費、19世紀ブルジョワの贅沢・・・他にも様々な例が挙げられるでしょう。しかし、人類はつい最近になって、まったく新しいことを始めた。それが「消費」であると、國分氏はいいます。「浪費」はどこかでストップしますが、しかし「消費」は止まらない、「消費」には限界がない、「消費」は決して満足をもたらさないというのです。なぜかというと、「消費」の対象は物ではないからです。人は「消費」するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではなく、物に付与された観念や意味を消費するのだというのです。「消費」とは「観念的な行為」であり、消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。記号や観念の受け取りには限界はありません。だから、記号や観念を対象とした「消費」という行動は、決して終わらないのだというのです。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店が美味しい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、誰かに「あの店に行ったよ」と言うためです。当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店にも行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「ええぇ?この店行ったことないの?」と言われるのを嫌がるでしょう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。これが「消費」です。消費者が受け取っているのは、食事という物ではありません。その店に付与された観念や意味です。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから「消費」は終わらないというのです。 申告飲水制度の話題に戻りましょう。つまり、多飲症・水中毒の人が水を大量に飲んでしまうとき、その人は「毒を洗い流すため」とか、「気分がハイになるから」とかの観念に駆り立てられており、実は水を味わっていないということなのです。それは水を「消費」してしまっている、観念的な記号を消費している。それに対して、申告飲水制度によって、美味しい水を味わって飲むという行為は、「浪費」に近いのではないかというのです。「浪費とは受け取る行為」であると國分氏は語っています。水から何かを受け取るのが浪費なら、消費というのは、相手、この場合は水から何も受け取らないということでしょう。そして、「消費」は止まらないが、「浪費」は止まる。・・・つまり、「味わう」こと、そして「美味しいねぇ」と語り合うことで、水から「美味しさ」を受け取り、水を味わう者としての自分が立ち上がる、出来事が起こる場としての「私」を、人は取り戻すのだということなのです。「味わう」という行為、「美味しいを受け取り共有する」という行為には、実はこれほど重要な意味が含まれているのだということに気づかされ、私は驚きを隠せませんでした。 【「美味しさの感動を描写し伝える」という行為の重要性】 お次はさらに、ただ「味わう」ことのみならず、「美味しいねぇ」と語り合う、そのときの「描写」と「伝える」ことの重要性について取り上げましょう。「世界は贈与でできている~資本主義の「すきま」を埋める倫理学~」(近内悠太 著 NewsPicksPublishing2020年3月13日発行1,800円+税)という書籍の中に、「賦(ふ)」という所作についてが、紹介されています。 夏目漱石が「Iloveyou」を「月がきれいですね」と翻訳したという有名な逸話がありますが、これは実際には記録に残っていない創作話であるようですが、私たちは「月がきれいですね」を、愛の言葉にふさわしいと感じます。重要な点はここだと著者の近内氏は語ります。「月がきれいですね」という言葉を向けられた相手は、その時どういう反応を見せるでしょうか。当然、同じ方向を向いて、月を見上げます。同じ景色を共有するわけです。「月がきれいだね」という一階の字義通りのメッセージを語ることで、「私とあなたは偶然、同じ時間、同じ場所に居合わせている」という二階のメタメッセージがそこに含まれます。だから、私たちは、美しい景色を見ると、誰かに教えずにはいられない。その光景を、今ここで誰かと共有せずにはいられない。純粋な自然の贈与を受け取ると、誰かにシェアしたくなる。ポップソングは昔からそうした歌詞であふれています。 「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」(「あの素晴らしい愛をもう一度」、作詞:北山修、作曲:加藤和彦)
「今君がこの雪に気づいていないなら誰より早く伝えたい心から思った」(「北風」、作詞作曲:槇原敬之)
漢文学者の白川静氏によると、このような私たちの所作は、「賦(ふ)」と呼ばれる形式だそうです。和歌などでは、よく風景の描写が登場します。古今和歌集などの古代文学における「賦」とは、数え歌の形式のことだと白川氏は指摘しています。「賦」とは、歌を詠む際の、言わば写生のことです。見たままを詳細に事挙げしていく。美しい山の姿であれば、山のあそこに茂みがあり、谷の具合や木々の深さがこうなっている・・・と、一つひとつ数え上げるように描写していく。なぜそのような形式が採用されているのかというと、白川氏によれば、「賦」の目的は単に歌を詠むことでなく、「歌うことによってその対象の持っている内的な生命力というものを、自分と共通のものにする、自分の中へ取り入れる」ことにあります。また、そのように文学的に美しく歌い上げるという「賦」によって、病気を治すことさえ可能だったといいます。「病気まで治る」というのは現代の私たちにはさすがに信じられませんが、しかし「生命力」と言い換えれば、納得できるはずであると、近内氏は語っています。 私たちが誰かと共に食事をするとき、その美味しさに感動したなら、テーブルを共にする相手に「美味しいね」と思わず伝えてしまうのも全く同じ理屈です。そして、その美味しさの感動は、「食」のみではなく、「酒」も加わった際に、より一層大きなものになります。カツオのタタキのプリプリの鮮度の良さ、ワラ焼きの燻した風味、赤身の旨味、ポン酢の酸味と辛味、ニンニクの風味、そしてそれらの味わいを融合させ膨らませながら、出汁のように下から支えて押し上げ、一層引き立ててくれる辛口の日本酒の美味しさ・・・写生するように、一つひとつ数え上げるように、美味しさを描写していくことが、「賦」になるのです。そしてその行為は、その「食」と「酒」の持っている内的な生命力を自分の中に取り入れ、さらに伝える相手にも、その生命力をおすそ分けできるということなのです。 まとめてみましょう。まず、「集いの中で酒を酌み交わす」という行為は、身体を持った人間が直に触れ合うという重要な行為の一形態であり、それは自我や他者性、ひいては社会性の形成に不可欠な行為なのだということです。そして、料理や酒から美味しさを受け取り、周りの人たちとその美味しさを共有しながら「味わう」という行為は、今や崩壊しかけている「私」を取り戻すことができるほどの、ある意味崇高な行為なのだということです。さらに、料理と酒のペアリングの美味しさの感動を、一つひとつ数え上げるように、写生するように「描写」し、それを誰かに伝えるという行為は、対象の持っている生命力を、自分の中に取り込み、かつ相手にも届けることができるほどのパワーを秘めているのだということなのです。 「集い」「味わう」「描写」のこの3点から得られる、「自我や他者性、社会性の形成」、「『私』を取り戻すこと」、「自分や他者にも生命力を取り込ませること」こそ、日本酒業界の真の存在意義であり、そしてそこから、酒を悪者にしない、一本芯の通った揺るぎない「哲学」が立ち現れてくるのだと、私は確信しています。
【門前編】酒を悪者にしない「哲学」~「集い」「味わう」「描写」の重要性~(PDF形式:309KB)