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- 「酒道 黒金流」門前編(無料コンテンツ【2】)
- 【門前編】酒を悪者にしない「哲学」~「集い」「味わう」「描写」の重要性~
First part of the gate
➀談笑し楽しく飲むのが基本です
➁食べながら適量範囲でゆっくりと
➂強い酒薄めて飲むのがオススメです
➃つくろうよ週に二日は休肝日
➄やめようよきりなく長い飲み続け
➅許さない他人(ひと)への無理強い・イッキ飲み
➆アルコール薬と一緒は危険です
➇飲まないで妊娠中と授乳期は
➈飲酒後の運動・入浴要注意
⑩肝臓など定期検査を忘れずに
【「集いの中で酒を酌み交わす」という行為の重要性】 では本論に入らせていただきます。まずは、「チンパンジーの鏡像認知実験」を紹介しておきましょう。この実験は、「コロナ時代の哲学~ポストコロナのディストピアを生き抜く~」(大澤真幸・國分功一郎著左右社2020年7月30日発行1,300円+税)という書籍に掲載されています。これは、鏡を見たときに鏡像が自分自身だと分かるかどうかをチンパンジー相手に試したという実験です。一般にチンパンジーは、このテストに合格します。つまり鏡に写った自分の姿を自分であると認識できるのです。ところが、生後すぐに母親から引き離され、隔離された状態で成長したチンパンジーは、このテストに合格することができなかったのだそうです。ならば仲間のチンパンジーを見たことがなかったため、そうなったのではということで、隔離されてはいるものの、仲間のチンパンジーをガラス越しに見ることはできる環境で成長したチンパンジーに同じテストを試したところ、このチンパンジーも合格できなかったというのです。 ここからは、チンパンジーの自己認識や他者感覚が、接触をともなった他者経験によって生み出されているのではないかという仮説が導き出せます。おそらく、人間の自己認識や他者感覚も同じであると言えるでしょう。じゃれあうとか、肩がぶつかるとか、対峙するとか、あるいは抱き合うとか、集いの中で酌み交わすとか・・・そうした身体経験が自我、ひいては社会性の起源にあるのではないでしょうか。つまり、身体を持った人間が直に触れ合うという身体性の次元が自我や他者性、ひいては社会性に不可欠なのではないか、ということです。長期化するコロナ禍で、目下私たちが目指している非接触型の世界は、何か根本的なものが失われてしまうということです。そして、私たちがより多くの人たちと心を許して直に触れ合うというシーンは、日常の中のどこにあるかというと、それは「集いの中で酒を酌み交わす」というシーンであると言えるでしょう。「集いの中で酒を酌み交わす」という行為は、身体を持った人間が直に触れ合うという重要な行為の一形態であり、それは自我や他者性、ひいては社会性の形成に不可欠な行為だということであり、つまりは「不急」ではあるかもしれませんが、断じて「不要」などではないと断言できるということなのです。 【「味わう」という行為の重要性】 続いては、「<責任>の生成~中動態と当事者研究~」(國分功一郎熊谷晋一郎著新曜社2020年12月1日発行2,000円+税)という分厚い書籍の中から、ごく一部を紹介させていただきましょう。この書籍は、気鋭の哲学者國分功一郎氏と、障がい当事者研究の第一人者熊谷晋一郎氏の対談本です。熊谷氏は、多飲症・水中毒という、精神科病棟でよくみられる症状について語られています。この症状は、大量の水を飲んでも止められない、隔離してもトイレの水まで飲んでしまったりして、嘔吐、失禁、意識混濁などの症状が起こるほか、生命を脅かすこともある危険な状態であるといいます。そして熊谷氏は、山梨県立北病院が編み出した斬新な対応方法を紹介しています。それは「申告飲水制度」です。要するに、事前に「これから水を飲みます」と申告してもらい、冷やした美味しい水をみんなで一緒に「美味しいねぇ」と言いながら味わって飲むというもの。すると、水中毒が減っていったというのです。これをどう解釈するかというと、國分氏の「消費」と「浪費」の概念が手がかりになるといいます。 ここで國分氏の「消費」と「浪費」の概念について、少し長くなりますが説明を加えておきましょう。國分氏の代表作ともいえる「暇と退屈の倫理学<増補新版>」(國分功一郎著太田出版2015年3月13日発行1,200円+税)を参照しています。まず、「贅沢」はしばしば非難されますが、ならば人は必要なものを必要な分だけもって生きていけばよいのか、必要の限界を超えることは非難されるべきことなのだろうかと、國分氏は問いかけます。必要なものが必要な分しかないという状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状を維持しなければなりません。これは豊かさからはほど遠い状態です。つまり、必要なものが必要な分しかない状態では、人は豊かさを感じることができない。必要を超えた支出があって初めて人は豊かさを感じられるのです。したがってこうなると、國分氏は語ります。必要の限界を超えて支出が行われるときに、人は贅沢を感じる。ならば、人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない、と。そして、「必要を超えた余分が生活に必要ということは分かるし、それが豊かさの条件だということも分かる。だが、だからといって贅沢を肯定するのはどうなのか?」という疑問に対する答えとして、國分氏は、ボードリヤールという社会学者・哲学者が述べている、「浪費」と「消費」の区別を挙げています。贅沢が非難されるときには、どうもこの二つがきちんと区別されていないのだというのです。國分氏いわく、「浪費」とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することだといいます。浪費は必要を超えた支出ですから、贅沢の条件です。そして贅沢は豊かな生活に欠かせません。さらに、「浪費」は満足をもたらします。物を受け取ること、吸収することには限界があるからです。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできません。つまり、「浪費」はどこかで限界に達する。そしてストップするのだと。人類はこれまで絶えず浪費してきました。どんな社会も豊かさを求めたし、贅沢が許されたときにはそれを享受しました。あらゆる時代において、人は買い、所有し、楽しみ、使いました。未開人の祭り、封建領主の浪費、19世紀ブルジョワの贅沢・・・他にも様々な例が挙げられるでしょう。しかし、人類はつい最近になって、まったく新しいことを始めた。それが「消費」であると、國分氏はいいます。「浪費」はどこかでストップしますが、しかし「消費」は止まらない、「消費」には限界がない、「消費」は決して満足をもたらさないというのです。なぜかというと、「消費」の対象は物ではないからです。人は「消費」するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではなく、物に付与された観念や意味を消費するのだというのです。「消費」とは「観念的な行為」であり、消費されるためには、物は記号にならなければならない。記号にならなければ、物は消費されることができない。記号や観念の受け取りには限界はありません。だから、記号や観念を対象とした「消費」という行動は、決して終わらないのだというのです。たとえばグルメブームなるものがあった。雑誌やテレビで、この店が美味しい、有名人が利用しているなどと宣伝される。人々はその店に殺到する。なぜ殺到するのかというと、誰かに「あの店に行ったよ」と言うためです。当然、宣伝はそれでは終わらない。次はまた別の店が紹介される。またその店にも行かなければならない。「あの店に行ったよ」と口にしてしまった者は、「ええぇ?この店行ったことないの?」と言われるのを嫌がるでしょう。だから、紹介される店を延々と追い続けなければならない。これが「消費」です。消費者が受け取っているのは、食事という物ではありません。その店に付与された観念や意味です。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから「消費」は終わらないというのです。 申告飲水制度の話題に戻りましょう。つまり、多飲症・水中毒の人が水を大量に飲んでしまうとき、その人は「毒を洗い流すため」とか、「気分がハイになるから」とかの観念に駆り立てられており、実は水を味わっていないということなのです。それは水を「消費」してしまっている、観念的な記号を消費している。それに対して、申告飲水制度によって、美味しい水を味わって飲むという行為は、「浪費」に近いのではないかというのです。「浪費とは受け取る行為」であると國分氏は語っています。水から何かを受け取るのが浪費なら、消費というのは、相手、この場合は水から何も受け取らないということでしょう。そして、「消費」は止まらないが、「浪費」は止まる。・・・つまり、「味わう」こと、そして「美味しいねぇ」と語り合うことで、水から「美味しさ」を受け取り、水を味わう者としての自分が立ち上がる、出来事が起こる場としての「私」を、人は取り戻すのだということなのです。「味わう」という行為、「美味しいを受け取り共有する」という行為には、実はこれほど重要な意味が含まれているのだということに気づかされ、私は驚きを隠せませんでした。 【「美味しさの感動を描写し伝える」という行為の重要性】 お次はさらに、ただ「味わう」ことのみならず、「美味しいねぇ」と語り合う、そのときの「描写」と「伝える」ことの重要性について取り上げましょう。「世界は贈与でできている~資本主義の「すきま」を埋める倫理学~」(近内悠太 著 NewsPicksPublishing2020年3月13日発行1,800円+税)という書籍の中に、「賦(ふ)」という所作についてが、紹介されています。 夏目漱石が「Iloveyou」を「月がきれいですね」と翻訳したという有名な逸話がありますが、これは実際には記録に残っていない創作話であるようですが、私たちは「月がきれいですね」を、愛の言葉にふさわしいと感じます。重要な点はここだと著者の近内氏は語ります。「月がきれいですね」という言葉を向けられた相手は、その時どういう反応を見せるでしょうか。当然、同じ方向を向いて、月を見上げます。同じ景色を共有するわけです。「月がきれいだね」という一階の字義通りのメッセージを語ることで、「私とあなたは偶然、同じ時間、同じ場所に居合わせている」という二階のメタメッセージがそこに含まれます。だから、私たちは、美しい景色を見ると、誰かに教えずにはいられない。その光景を、今ここで誰かと共有せずにはいられない。純粋な自然の贈与を受け取ると、誰かにシェアしたくなる。ポップソングは昔からそうした歌詞であふれています。 「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の心と心が今はもう通わない」(「あの素晴らしい愛をもう一度」、作詞:北山修、作曲:加藤和彦)