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【門前編】「酒道」としての「作法」と「あり方」

First part of the gate

【門前編】「酒道」としての「作法」と「あり方」

「酒道」と言うと、必ずといっていいほど「酒席での作法やしきたりなんかを学ぶのですか?」という質問が返ってきます。確かに「茶道」や「華道」などには、作法やしきたりが多く、それがメインのように捉えられがちですが、実は「茶道」も「華道」も、そして「酒道」も、作法やしきたりがメインなのではありません。あらゆる「道」にとってメインとなるのは、その根本にある「美意識」や「あり方」なのです。根本にある「美意識」や「あり方」が、しぐさや行動として表出されたものが、作法やしきたりとして脈々と受け継がれてきているのだといえるでしょう。そこで今回は、「『酒道』としての『作法』と『あり方』」というテーマで、お伝えしたいと思います。 【貧しい人が貧しい理由】 作法やしきたりの根本には、必ず相手や周囲を思いやる美意識があります。自分のことだけを考えるのではなく、他者の気持ちや思いを察して、それを態度やしぐさで表したものが、作法やしきたりだということです。この「他者の気持ちや思いを察する」だとか、「それを態度やしぐさで表す」だとかは、平常時や自身に余裕やゆとりがあるときなら、ある意味誰でも比較的簡単に実践することができるでしょう。しかし、たとえば自身のキャパシティを大きく超えるほどの仕事を抱えて目が回るほど忙しいとき、あるいは公私ともに様々なトラブルなどが重なって大変なとき、または精神的にダメージを受けてつらくてしんどいとき...果たして皆さんは、平常時と変わらずに実践できるでしょうか?考えてみてください。重なるときには重なるものです。キャパシティを超えるほどの仕事を抱えているときに限って、大切なお取り引き先からヤヤコシイ仕事の依頼があったりするものなのです。その時、平常時と変わらず、相手の気持ちを察し、それを態度やしぐさで表すことができるでしょうか?自分に余裕があるときならできるけれど、余裕がないときにはできないというのならば、それは結局形だけだったということであり、そこには「美意識」が存在していないということであり、自身の「あり方」が定まっていないということの何よりの証拠になるのではないでしょうか。ましてや今、コロナ禍で「それどころではない!」という声が氾濫し、何でもありがまかり通り、「美意識」も何もあったものではない、自分のことしか考えない行動が当たり前のように蔓延しています。そんな時代だからこそ、「美意識」や「あり方」や「作法」に対する本気度が問われており、ある意味簡単に本物を見極めることができるのだといえるでしょう。 自分が大変なとき、人はなかなか他人のことまで頭が回らず、自分のことしか考えられなくなってしまうものです。ある意味、それは当たり前のことだと思われるかもしれませんが、しかし実は、逆なのです。自分が大変だからこそ、他者のためにできることを考え、それを行動に移さなければならないのです。大変なのは自分だけではなく、誰しもが大変なのだと気づかなければなりません。仏教には「托鉢」という行があります。お坊さんが手に鉢をもって、家々を回りお布施をいただくという行です。そして、お釈迦様は托鉢に向かう弟子たちに、こう言ったそうです。「お金持ちの家ではなく、貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい。」と。普通に考えると、お金持ちのところに行くのが当然でしょう。しかし、お釈迦様の思いは別のところにありました。貧しい人がなぜ貧しいのか。それは、自分のことしか考えず、自分のためにしかお金を使わないからです。そういう人たちに「与える喜び」を味わってもらい、貧しさから抜け出す道に一歩を踏み出してもらうというのが、実は托鉢の真の目的だったのです。つまり、逆なのです。自分が大変だからこそ、他者のためにできることを考え、それを行動に移す。そこにこそ発展の道があるということなのです。「酒道黒金流」としての「美意識」や「あり方」は、これを根本精神においています。 【「品格の教科書」と「小笠原流」礼法】 続いては、今回のテーマにおけるお薦め書籍をご紹介しておきましょう。私も会員になっている某会で度々ご一緒させていただいている方、江戸時代から続く岐阜の老舗呉服店「山本呉服店」取締役会長山本由紀子さんのご著書、「品格の教科書~美しく誇り高く生きるための43の学び~」(山本由紀子著サンマーク出版2021年9月30日発行1,400円+税)です。こちらの書籍は、日本における礼儀作法、マナー、しぐさ等を、歴史や成り立ちから紐解いたもので、ゆえに読んだら忘れにくく、応用がきくため、一生ものの知識になるという内容です。脈々と受け継がれてきた作法やしきたりの裏側にある「美意識」を学ぶことで、誇りと自信がみなぎり、そしてそれはあなたの「あり方」を築き、品格を生むというのです。 つまり、作法やマナーをただ丸暗記して覚えるのではなく、その根本には由来や意味、歴史や成り立ち、「美意識」などがあり、それらを理解した上で行動することで、美しい所作や品格が生まれ、人生が変わっていくということが述べられているのです。830年の歴史を持つ「小笠原流」の礼法も、「型」にこだわる形式主義ではなく、体や物の機能の本質を見極めて臨機応変に対応する、日常生活とともにある美しい所作を理想としていると、何かの雑誌で読んだ記憶がありますが、これもまた同様のことが述べられているということでしょう。「小笠原流」礼法の基本は、まずは正しい姿勢、つまり人の骨格に合った自然な姿勢や動作にあり、物に対しても機能を損なわない扱い方が基本になるということです。次期宗家の小笠原清基さんは、「相手を不快にさせない、心地よくすることが礼法に必要な考え方といえば、わかりやすいかもしれません」と語られていました。 【和のしぐさ、お付き合い、食、そして「あり方」】 ではまず、「品格の教科書」に書かれている「和のしぐさ、お付き合い、食、そして『あり方』」について、以下に抜粋して簡単にまとめてみましたので、ご覧ください。

<姿勢>美しい所作の基本は、美しい姿勢です。美しい姿勢とは、骨格や筋肉の流れに逆らわない自然な姿勢です。筋肉や関節にかかる負担が少なくなり、全身がゆるむことでリラックスし疲労が軽くなります。頭のてっぺんを天から糸で引っ張られているようなイメージで背筋を伸ばすと、自然にお腹とお尻がへこんだ美しい姿勢になります。おへそから7センチほど下の丹田に、気力が満ちるのをイメージすると姿勢が崩れず心も動じません。心のあり方は体の構えとなって外に表れます。その逆に、体の構えを整えることで心のあり方も整うのです。「姿勢が変われば、心も変わる」というのは、いつの時代も変わることのない真理なのです。

<おじぎ>外国人が握手するときは、右手を預けることで相手への敵意がないことを表します。同様におじぎも、体で最も重要な部分である頭を下げることでそれを示します。外国人が握手をするのも、日本人がおじぎをするのも、本来は同じ意味なのです。外国の挨拶が握手やハグなのに対して、日本でおじぎが挨拶になったのは高温多湿で、特に夏場がベタベタし、体を触れ合うのは互いに不快感を抱きかねないためだといわれています。離れたままでできるおじぎが挨拶になったのは、日本だけでなく、高温多湿の東南アジアの国々でも同じです。すぐに慣れ慣れしく寄って行かないで、相手も自分も独立した人間でありお互いに対等であることを認め合おうとするひとつの儀式なのです。

<履物を脱ぐ>戦前までは、お店のみならず一般の家庭でもお客様の履物の向きを変えるのは迎える側がすべきこととされていました。今は下足の管理人がいない場合が多く、家人に手間をかけさせないという意味でも、自分で向きを直すべきです。よく見受けられるのが、玄関でくるっと向き直って靴を脱ぐ様。履物を揃えて、つま先を入り口の方に向けるのは一見丁寧な脱ぎ方に思えます。それがマナー違反である理由は二つあります。ひとつには、後ろ向きになったとき、家の方にお尻を向けることになるからです。二つめには、足先でチョッチョッと靴を揃えるのはみっともない光景だからです。誰に対して失礼というわけではないですが、確かに見苦しいです。つま先が室内、かかとが入り口の方を向いている状態、つまり「脱いだまま家へ上がる」の形がマナーになったのは茶道の影響によるものです。脱ぐときはまず両足を揃えてつま先を家の中に向けて脱ぎます。そして、上がってから相手にお尻を向けないよう体をやや斜めにして、つま先を外に揃え、邪魔にならないところに置きます。茶室に入るときは、にじり口と呼ばれる狭い入り口で履物を脱がなければならず、美しく揃えておくためにも、退出するときに履きやすくするためにもこういった礼法が生まれました。それが住居など他の建物に上がるときの作法としても用いられるようになりました。しかし、トイレの履物を脱ぐときだけは例外です。昔のトイレは「ご不浄」とも呼ばれ、汚れた場所として家の外にありました。次第に、家の中にトイレが設けられるようになったのですが、「不浄」を他の部屋へもち込みたくないので、トイレ専用の履物を用意しました。スリッパを揃えておくためにも次に履く人のためにも、不浄のトイレのスリッパには、手を触れず後ろ向きに脱ぐのが作法となりました。ですから、玄関でくるっと後ろ向きになって履物を脱いだら「ここはトイレだ」「不浄だ」と言っていることにもなりますから要注意です。

<音に気をつける>音は空気の振動です。動きが丁寧であれば大きな音はしません。自分の思うままに行動する人が発する音は、周囲への配慮、心遣いを欠いています。自らそれに気づき、不快音を立てないよう心遣いができる人は、他人への配慮ができる人といえます。音がしないような物の扱い方は、見た目にも美しく、物を大切に扱うことになります。心を伴わない動きは不快な音を生み出します。不快な音を出さないためにも、すべての所作には心を伴わせましょう。...これに対する私(竹村)の体験談として、ひとつ事例を挙げさせていただきます。アメリカ出張に行った際、アメリカの航空会社の機内におけるCAさんのサービスは、ふんぞりかえったような態度で要件を聞き、飲み物や食べ物はガチャンと音がするような置き方で置くというもので、大変びっくりしました。その後に、日本の航空会社の飛行機に乗ったのですが、こちらのCAさんはお客様の隣にひざまずいて座って目線をお客様より下げて要件を聞き、飲み物や食べ物は音がしないようにそっと置く、しかも完全に置き終わっても、まだそこに「心を残して」おり、気を抜いていないということがよく分かりました。武道の世界で言う「残心(ざんしん)」ですね。その差があまりに大きかったこともあり、日本のCAさんの品格ある素晴らしいサービスに、一層感動してしまいました。

<挨拶の神髄>挨拶の「挨」は押す、開くという意味で、「拶」は迫るという意味。もともとは、禅問答から生まれた仏教用語でした。僧同士で一方が言葉を投げかけ、もう一方がどのような言葉で切り返してくるか、相手の力量を測り修行の進み具合を試していました。禅の言葉「一挨一拶」には、言葉によって一対一で真剣勝負をするような厳しさがありました。挨拶はお付き合いを円滑に進めるための漢方薬ともいえます。毎日続けることで、その効果がじんわりと表れてきます。

<食事の作法は「心遣い」>人は昔から一緒に食べる「共食」を重視してきました。日本の神事でもっとも大切な「大嘗祭」は、天皇が神と共食する儀式です。一般でも、お祭りや儀式の終了後に行われるのが「直会(なおらい)」という神様との共食です。何を食べるかも大事ですが、一緒に食べることを大切にしてきたのです。ですから、楽しく食べるために、相手に不愉快な思いをさせないようにできたのが、食事の作法です。たとえば焼き魚を食べて残った骨などに、添えてあった葉っぱを上にかぶせるという行為は、作ってくださった料理人さんへの「美味しかったです」という御礼、仲居さんへの食べた後の汚れで不快な思いをさせないようにという心遣い、そして命をもらった魚への感謝が込められているのです。英国のエリザベス女王が、パーティーに招いた賓客がフィンガーボウルの水を飲んだのを見て、恥をかかせないために自らも飲んだという逸話があります。それは多少作法が間違っていたとしても、食事を一緒に美味しく楽しむことを優先したのでしょう。食事の作法は美しく食べるためのルールですが、形を守ることが大切なのではなく臨機応変に考える柔軟さが必要です。大切なのは、一緒に食べる人と仲良くなるための「心遣い」なのだということを肝に銘じるべきでしょう。

<箸使い>「箸さばきを見れば、その人の育ちや人柄がわかる」と言われるほど、箸使いには作法があり、様々なタブーがあります。大和言葉で、「ハ」は物の両端を表し、「シ」は物をつなぎとめることを意味しました。そこで箸は、「他の命と自分の命をつなぐもの」とされました。また、箸先は人のもの、天(頭)の部分は神様のもので、食事の際には箸に神様が宿ると考えられてきました。そのため、和食の作法はほとんどが「箸の使い方」だと言っても過言ではないほどで、箸使いのタブーは、「嫌い箸」「忌み箸」などと呼ばれ、70種類ほどもあります。「なぜいちいちこんな面倒なことを言うの?」と思われるかもしれません。しかし、人と一緒に食事をすることにおいて、もっとも大切なことは周囲に不快感を与えないことです。不快感の正体には三つあります。ひとつが見た目に美しくない所作、二つ目に物を大切にしない所作、三つ目は不吉なことを連想させる所作です。三つの中でも絶対にやってはいけないのが、葬儀を連想させる「仏箸」。ご飯に箸を立てるのは、死者の枕元に供える「枕めし」を連想させるためタブーなのです。

<左が上位>古来日本では右と左では「左の方が上位」、格が上とされてきました。ご飯は農耕民族にとって大切なお米ですので「上位」、汁物より格が上です。ですから、食べる人の左手の方に「ご飯」を置き、右手に「汁物」を置きます。同じように、お茶とお菓子では「お菓子」が主となるので左に、「お茶」が右となります。「左が上位」とされる理由をめぐっては所説あります。人間にとって、もっとも大事な心臓は体の左側にあるので、左が格上になったという説があります。また、御所で天皇陛下が太陽の方、南を向いて座られたとき、左手となる東から太陽が昇り、右手になる西へ沈みます。ここから太陽が出る方、左が上位となったという説もあります。物事をすすめるとき、たとえばお茶を出したりお酒を注いだりするときは下座、つまり相手から見て右側からすすめなければならないとされています。心臓がある左側からすすめないことで、敵意がないことを態度で示すためでもあります。「左から始める」「左を上位」とする、この原則が日本の礼儀作法の基本なのです。

<和食の作法の特徴>和食、日本料理が他の国の料理と大きく違うのは、小さな器のほとんどは持ち上げて良いということです。たとえば、刺身や天ぷらを盛ってある皿は持たないけれど、刺身の醤油皿や天つゆが入った器は持って食べます。食べ物の方に顔を近づける食べ方は、「犬食い」といって嫌われます。また「良かれ」と思ってやりがちな「手皿」も間違いです。手皿とは箸でつかんだものから汁などが垂れないように、空いている手を受け皿のようにして添えることです。そうならないよう、小さな皿を持って背筋を伸ばして食べれば良いのです。

<お天道様が見ている>子どものころに、「悪いことをしたらいけないよ、誰も見ていないと思ってもお天道様がちゃんと見ているから」と言われた経験がある方も少なくないでしょう。「品格の教科書」の著者、山本由紀子さんは、「お天道様が見ている」ということには、二つの意味があると記しています。ひとつは、「誰が見ていなくてもお天道様が見ているんだから悪いことをしてはいけない」という戒め。もうひとつは、「人生にはいろんなときがある。良いときもあれば、悪いときもある。でもどんなときでもお天道様が見ていてくれる。誠実に一生懸命に生きていればお天道様はほっとかない。だから安心して自分の道を歩みなさい」という意味です。20世紀初頭の社会教育家・後藤静香の「本気」という詩があります。「本気ですれば大ていな事は出来る本気ですればなんでも面白い本気でして居ると誰かが助けてくれる。」...一見、他力本願に聞こえる言葉ですが、本気で努力し続けていると誰かが助けてくれる。この誰かは人のようでもありますが、私はお天道様が派遣してくださるように思えるのです、と山本さんは語っています。

<変えてはいけないものを決める>比叡山延暦寺には1200年絶えることなく守られている「不滅の法灯」という光があります。中国から仏教(天台宗)を伝えた最澄が、「迷い」という闇を照らして人を導くものになりますようにとの願いを込めた光です。「灯」とはお灯明のことで、「伝灯」とは、師から弟子に教えが絶えることなく伝えられることを意味しています。明治時代に政府が、仏教色が強すぎるということで「伝灯」を「伝統」という文字に変えました。「統」の字に変えたことで、糸を紡いで一本にまとめるという意味に変わってしまいました。「不滅の法灯」も、守り伝えるために欠かすことのできないことは、「新しい油を注ぎ続けること」です。常に新しい油を注ぐことで、ずっとつながっていきます。しかし、たった一瞬でも油を注ぐことを怠ってしまえば火は消えてしまいます。一度失われてしまえば途絶えます。ですからそれを「油断」というのです。最初の「志」をつなぎ守っていくには、常に新しい油を注ぎ足すことが必要なのです。「伝統の灯を消さない」という言葉の本質もそこにあるのです。著者の山本さんが受け継いだ呉服屋の本店がある岐阜県の揖斐(いび)は、かつて城下町として栄えましたが、人口減少と高齢化にいち早く直面したといいます。店を守るだけなら商品アイテムを増やし何でも屋になれば良いことです。しかし、着物という文化を伝えていく使命があります。「ならばいままで以上に着物に特化してより専門化する」として、お父様は出店する道を選んだといいます。「変えてはいけないもの」は、店を継続させることではなく、店を大きくすることでもなく、「着物という文化を伝えていく」という使命感だったのです。時代が変化していく中では、否応無しに人の暮らしも考え方も変わっていきます。そんなとき、「変えてはいけないもの」を決めることで、生き方の芯ができます。後は時代に合わせてしなやかに変わっていくことですと、山本さんは語っています。
【土佐の高知の宴席文化】 続いては、「土佐の高知の宴席文化」についても、以下に簡単にご紹介しておきましょう。土佐の高知の風土は、まず森林面積比率が84%(日本一)で、降水量も多く、日照時間も長いため、大変「山の幸」が豊富です。そしてそこから、日本一の清流と言われる「仁淀川」や「四万十川」などの清流にも恵まれることになり、「川の幸」も大変豊富となります。加えて、長い海岸線に恵まれており、大月町柏島周辺海域などは日本一魚種が豊富(1,000種超え)であり世界中からダイバーが集まる聖地と呼ばれているほどで、「海の幸」も大変豊富なのです。しかも、平地が少ないこともあり、最も都心である高知市中心部から山も川も海も大変近いため、鮮度抜群の山川海の幸がすぐに手に入ります。つまり、「鮮度抜群の山・川・海の幸に日本一恵まれた県」であると言っても過言ではないでしょう。また、元々温暖な土地であるため、食材保存の観点からも食酢を多用する食文化が育まれており、さらに加えて独特の「酢みかん文化」(柚子、ブシュカン、直七などの香酸柑橘類を酢として多用)も存在しています。このような食文化が、日本一辛口で、酸味がしっかりあって、雑味が少なく、後口が綺麗で、何杯飲んでも飲み飽きしない土佐酒を生み出したとも言えるでしょう。その上、土佐人は南国土佐の太陽のように明るく人懐っこく、宴会が大好きな県民性。そこから独特の「おきゃく文化」や「なかま文化」が育まれています。「おきゃく」とは、大勢で酌み交わす土佐流宴席のこと。そして「なかま」とは、同志の意味以外に、土佐弁では「共有する(シェアする)」という意味も持ちます。宴席で皿鉢料理を大勢で「なかま」にし、同じ杯も「なかま」にして酒を酌み交わし、あちこち移動しながら席も「なかま」にし、さらに豊富な「お座敷遊び」でも杯を「なかま」にして盛り上がりまくるのです。つまり、「食が美味しい!酒が旨い!人が明るい!そして世界一宴が楽しい酒国土佐!」であると言えるでしょう。 そんな独特の「おきゃく文化」と「なかま文化」により、土佐の高知の酒席の作法も、独特のものになります。全国的に一般には、「献杯」といえば目上の人やお客様から「お流れを頂戴する」という意味で杯をいただく行為であり、自分から杯を相手に差し出すことは失礼になるとされています。一般には、その後「献杯」を受けた人が、目上の人に対して「ありがとうございました」と言って、その杯を相手に返してお酒を注ぐ行為を「返杯」といいます。ところが土佐の高知では真逆で、一般に目下の者から目上の者やお客様に対して、先に杯を差し出してお酒を注ぐ行為を「献杯」といいます。その杯が返ってきたものが「返杯」となります。これは、「献杯」「返杯」が全国的には主従関係を示すものであったのに対し、土佐の高知での宴は、様々な立場の人が身分の違いを越えて飲み交わすことで親密なつきあいが生まれる場とされているからです。そのため、各自が目当ての相手の近くの席に移動し、にぎやかに座が乱れる光景が繰り広げられ、「献杯」「返杯」も目上か目下かに関係なく、どちらからでも杯を差し出し合い、「杯が空を飛び交う」と言われる宴席となるのです。こうした風習は高知独自の文化であり、高知発祥といえるでしょう。そして、どちらの「献杯」「返杯」が作法として正解かということではなく、あらゆる文化に地域差は付きものですから、あえて言うなら「郷に入りては郷に従え」で、つまりその地域の文化や風習に合わせるというのが正解ということになるでしょう。 もうひとつ、面白い事例をご紹介しておきましょう。通常、徳利やお銚子で相手にお酒を注ぐ場合、徳利やお銚子の絵柄のある正面を上にして注げば、注ぎ口のある場合はそこから注ぐことになり、これが正式な作法とされています。ところが高知のある料亭では、女将さんがお客様にお酌をする際に、あえて徳利やお銚子の注ぎ口のある口を上にして、反対からお酒を注ぎながら「大切なお客様との縁を切らないように...」(つまり、徳利やお銚子の注ぎ口から注ぐと、その注ぎ口の円(縁)を切ることになるため)とささやきながら注ぐというのです。このどちらが正解でしょうかという質問を受けたことがあるのですが、この場合どちらも正解であるというのが答えになるでしょう。一般には、注ぎ口から注いだ方がこぼれにくいですし、物に対して機能を損なわない扱い方が基本になるという意味でも、せっかく注ぎ口があるのにそこを使わないというのは作り手に対して失礼ということになり、注ぎ口から注ぐのが正解となります。しかし、この女将さんの「お客様との縁を大切にしたい」という思いを大切にするならば、あえて注ぎ口の反対から注ぐこともまた正解であると言えるのです。 【二人の禅僧の話】 さて、最後に二人の禅僧の話をご紹介いたしましょう。二人の禅の修行僧が各地を行脚していました。ある時、橋のない川が豪雨の後で水かさが増したため、そこを渡りたい若い女性が立ち往生して困っているところに、二人の禅僧が出くわしました。それを見た、二人のうちの一人の禅僧が、すぐさま駆け寄り、その若い女性をおんぶして向こう岸まで渡してあげたのです。心中穏やかでないのは、これを見ていたもう一人の修行僧。しばらくは我慢していましたが、後になって遂に「修行中の禅僧たる者が女性を背負うとは何事か!」と咎めたのです。すると、おんぶした方の僧は驚いた顔を見せ、すぐに笑いだし、こう言ったのです。「私はあの女性をとっくに下しているのに、あなたはまだ背負っているのですか?」...若い女性に執着していたのは、果たしてどちらでしょうか?...作法やしきたりやマナーも、究極的にはこの二人の禅僧の話と同じで、大切なのは型ではなく、本質なのです。作法やしきたりやマナーという、「カタチ」や「所作」自体が大切なのではないのです。たとえ「カタチ」や「所作」が、通常は重大なマナー違反と言われるような行為であったとしても、その行為にしっかりと真摯な心が宿り、誇りと自信に充ちた「美意識」があり、あなたの「あり方」がそこに品格として表出されているならば、それが正解であるということなのです。