【門前編】日本料理とは?そして日本料理の可能性、日本酒の可能性
前回は、「和食」をテーマにお届けいたしましたが、今回は「日本料理」がテーマです。「和食」と「日本料理」の違いは何かといえば、家庭食を中心とした日本の伝統的な食文化全般を「和食」といい、料理店で提供される高度な技術を要する料理を「日本料理」という言い方がふさわしいと考えられているようです。ちなみに「日本食」という言い方もありますが、こちらは日本で食べられている食事全般の総称で、ラーメンやカレーなどの外来食も含まれます。そんな中で今回は、料理店で提供される高度な技術を要する料理である「日本料理」について、「日本料理とは?そして日本料理の可能性、日本酒の可能性」というタイトルでお届けし、日本酒についても言及してみたいと思います。
【最古の日本料理とは?】
「日本料理とは?」を解説するにあたって、まずは全国日本調理技能士会連合会師範会最高顧問であり、日本料理の歴史を系統だてて語れる数少ない語り部の料理家、阿部孤柳(1925年〜2010年)氏の著書「日本料理の真髄」(阿部孤柳 著 講談社+α新書 2006年8月20日発行 838円+税)を、ご紹介いたしましょう。阿部氏はこの書籍の中で、まず「最古の日本料理」を紹介されています。「古事記」や「日本書紀」と同じ頃に書かれた「高橋氏文(うじぶみ)」という祝詞(のりと)の中に、次のように記されているそうです。「十二代景行天皇が日本武尊の戦跡を訪ねられた折に、料理人として随行した磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が上総の国淡水門(あわみなと)で、海中からハマグリとカツオを獲って、なますにして天皇に奉った」とのこと。これが日本最古の調理法の文献とされています。ちなみに磐鹿六雁命は、日本料理の神様と言われています。近世に醤油ができるまでは生の魚はすべて「なます」にして食べていたそうで、刺身の前身ともいえます。古代の「なます」は、生の魚肉を細く薄く切り、海の塩と天然の柑橘類の搾り汁や梅酢で食べていたようで、これが刺身の原形だと考えられているのです。ところで土佐の高知は、日本一カツオをよく食べる県であり、さらに「酢みかん」と称して柑橘類の搾り汁を酢として多用する独特の食文化が根付いており、カツオにも搾りかけることが多いですが、これはある意味、最古の日本料理の流れを汲んだ食材や調理法がそのまま残っているのだといえるでしょう。
また阿部氏は、魚介類を生食するのは日本料理の最も典型的な特徴で、刺身なしには日本料理は成立しないと語っています。そして、日本料理の汁の原点は潮汁であるとも語っています。日本最古の調理法である「なます」が進化した刺身と、潮汁を原点とする吸い物の2つは「椀刺し」と呼ばれ、現代でも日本料理の華と言われ、料理人の一番の腕の見せ所と言われています。さらに、日本料理を代表する会席料理においては、「椀刺し」がメインディッシュであるともいえるのです。ちなみに「椀刺し」、つまり刺身と「吸い物」は、“酒菜”であり、酒の相手をする肴です。一方、「汁」は飯の相手をする“惣菜”なのです。
【日本料理の「素材の持ち味」、「単味」、「返り味」】
また阿部氏は、日本人はおいしいものを探し、その持ち味を味わうことを第一としてきたと書かれています。まずいものをうまく調理して食べようとはしなかったというのです。一方、外国の料理はどんな素材でも、できるだけうまく加工して食べることを目的として発展してきました。そこが日本人の料理に対する考え方と大きく違うところだと語っています。日本は、その地理的環境から非常に温和で、海の幸、里の幸、山の幸に恵まれ、気候風土のよい土地であったため、素材そのものの味がよいもの、手を加えないでもおいしく食べられるものを「おいしい」と呼ぶようになったというのです。そして、料理とは何かという問いに、もっとも単純に答えれば、食べるものに手をかけてうまくすることで、そのままでは食べられないものを加熱したり切り刻んだり、いろんな方法でうまく、食べやすくすることだと語っています。しかし私たちの祖先は、おいしくないものに手を加えてまで食べたいとは思わなかったので、調理法としては極めて消極的な方法しか取りませんでした。吸い物と刺身も、食材に限りなく手を加えることを避けて作られたものです。つまり日本料理の原則は、「素材の持ち味以上においしくしない」ことで、それが素材をいかにうまくして食べるかを追求した中国料理や西洋料理との根本的な違いになったのだと書かれています。
日本料理の原則は、素材の持ち味を引き出すことで、素材そのものの味を殺すような味つけや調理はしません。日本人は、豆腐に醤油をちょっとつけて食べ、「いい大豆を使っているからおいしい」などといって、豆腐の味を「単味」で味わいます。白い豆腐や味つけのされていない白いご飯をおいしいといえるのは、日本人だけが持つ「単味」の味覚であり、素材そのものを「単味」で味わう能力を日本人は持っているのだと、阿部氏は語っています。しかし現在は、素材は何であれ、濃厚でうまい味にしようと考える人が多くなってきたと、阿部氏は嘆いています。昔から“隠し味”として何を加えたのか分からないように味を添加することは日本料理の技法のひとつでしたが、最近は隠し味ではなく、いろいろな味のものを混ぜて、今までに経験したことのないうまい味を作り出すことが料理だと思われている節があるというのです。こうなると素材をどう扱うかはどうでもよく、料理とはどういう味で食べるかだけを意味するようになってきます。この料理はいったい何で作ったのだろうと、得体が知れないほど巧妙な、うまい料理ができる日には、日本人の味覚は終焉を告げることになるでしょうと、阿部氏は書かれています。
さらに阿部氏は、近頃吸い物を半分飲んで蓋をする人が増えたと、つまり吸い物がうまいと思えない人が増えたと嘆いています。これは、「返り味」というものを知らないからだといいます。吸い物は日本料理の中で、食べる人に季節感を教える重要なものですが、口をつけて吸った瞬間に味が分かるものではありません。いったん胃袋に納まってから、ゆっくりと脳に刺激が伝わり、再び口に戻ってきて「うまい」と感じるものなのです。「返り味」とはこういう味のことをいいます。一口吸った瞬間には物足りなく感じますが、全部吸い上げたときに、はじめてちょうどよい味になるように仕立ててあるので、一口すすって「うまい!」と絶賛するラーメンのスープとは違います。本物の吸い物とは、一口吸っただけでは味がしないものなのです。
ところで日本酒も、近年は甘くて濃い味わいのものが増えており、人気を博しています。かつては、いわゆる「甘口の酒」であっても、人がもっとも強い甘さを感じるグルコース(ブドウ糖)以外に、ほの甘さを感じるオリゴ糖やデキストリンなども含まれていましたが、近年は、高グルコ菌という麹を使ったり、酵素剤を使ったりすることで、オリゴ糖やデキストリンもほとんどグルコースに変えてしまい、かつての甘口酒の比ではない、大変強い甘味を持ったグルコース濃度が極めて高いタイプが増えているのです。その理由は、グルコース濃度が高い日本酒の方が、コンテストなどで入賞しやすいことと、これまで日本酒が苦手だった若い方々にも、一口飲んで「うまい!」と絶賛されるからです。確かに、グルコース濃度の高い日本酒は、若者の入門酒としては最適でしょうし、「濃厚でうまい味の料理」などには合うかもしれません。しかし、日本料理を代表する会席料理においてのメインディッシュである「椀刺し」、つまり刺身と吸い物には、グルコース濃度の高い日本酒では、その繊細な味わいを台無しにしてしまうのです。本来、酒の相手をする肴であるはずの「椀刺し」に、合わない日本酒が近年は増えており、人気を博しており、「うまい!」と絶賛されており、コンテストでも賞を獲りまくっている...。グルコース濃度が高い日本酒を否定するつもりはありませんが、もしそんな日本酒だらけになってしまったなら、吸い物の返り味のおいしさも、日本人の持っている単味を味わう能力も、素材の持ち味を引き出すという日本料理の原則も、廃れてしまうのではないでしょうか。これらの日本料理の素晴らしさを守り、次世代につなげていくためにも、「酒道黒金流」では、一口飲んだだけでは物足りなくとも、食材の素材そのもののおいしさを下から押し上げ引き立て、食がおいしくなり、ついつい杯が進むという、辛口酒の王道のおいしさを伝え広げていこうとしているのです。
【日本料理の旬、日本酒の旬】
自然の中からおいしいものを探し、食べ頃になるのを待って食べていた私たちの祖先は、様々な食材について、いつ頃になるともっともおいしくなるのかを知っていました。この生活の知恵は今日まで伝承され、日本人はこの時季を“旬”と呼んでいると、阿部氏は語っています。そして、旬を待ちきれず早く食べたいという人のために、多少味は落ちても季節を先取りして食べる方法が工夫され、旬を迎える直前に食べるものを“走り”と呼びます。また、旬を過ぎてしまってやや味は落ちるけれど、これを逃すと来年まで食べられなくなるものを、“名残”といい、これは文字通り名残を惜しんで食べるのです。走り・旬・名残は、茶懐石の料理でもご馳走で、それぞれの食材が一番おいしくなる時季は値段も安くなり、一挙両得となります。茶料理では、旬の食材を使い、心をこめて手作りするのが最高のおもてなしとされますが、そこには時季はずれの高価なだけの食材を使う愚かさを戒める意味合いも含まれているのですと、阿部氏は書かれています。
そして、アユの走り・旬・名残について、紹介されています。毎年6月1日はアユの解禁日です。6月の初め頃のアユは稚アユから少し成長したくらいで、まだ旬のおいしさは期待できませんが、塩焼きにして蓼酢(たです)で食べるのが季節の風情で、これが走り。ちょうどこの時季、蓼が芽を吹きます。やがてアユが成長し、いい形になってくると脂ものって本格的な旬を迎えます。この頃になってはじめて稚アユにはない豊潤なアユのおいしさを賞味できるようになります。アユに田楽味噌を塗って焼いた魚田やフライなどにすると、実にうまいものです。もちろん塩焼きもおいしいです。時がたち、秋風の吹く頃には落ちアユとなって川を下ります。もう来年までアユは食べられなくなる時季になると、食通は蓼の葉を敷いてアユを煮浸しにし、名残を惜しんで賞味します。腹にたくさんの卵を抱えたアユは、煮浸しにすると実にうまいものです。日本人はアユに限らず、ひとつの食材を走り・旬・名残と三回楽しんで食べるのですと、阿部氏は語っています。
そして、世界中のアルコール飲料の中で、日本酒ならではの一番の特徴は、「旬がある」ということです。「旬がある」とは、次のような意味です。まず、日本酒には古来より、春には「花見酒」、夏には「滝見酒」、秋には「月見酒」、冬には「雪見酒」という具合に、自然の四季の移り変わりを愛でながら楽しむ風習がありました。さらに日本酒自体にも四季が、季節感が、旬があるのです。春には春霞のような「薄にごり」の「霞酒」やフレッシュで軽やかな「しぼりたて新酒」、夏には軽快でなめらかな味わいの「生酒」や「生貯蔵酒」、秋には熟成して旨みタップリとなった「ひやおろし」、そして冬には「燗酒」や「しぼりたて原酒」という具合に、その季節にしか味わえないような旬の日本酒が存在しているのです。
さらにそれぞれの旬の日本酒は、見事に旬の食の効用を促進させ、しかも旬の食と見事にピッタリの相性を示すのです。まさに天の配剤としか言いようがありません。春の「霞酒」や「しぼりたて新酒」(アルコール度数15度程度のものが良い。)は生命力にあふれ、冬の間に動きが鈍っていた内臓を活性化させてくれますし、春の山菜料理などの旬の食材が持つほのかな苦味と抜群の相性を示し、そのおいしさをさらに引き出してくれます。夏の「生酒」はフレッシュで爽やかな香味を持ち、身体を冷やす効果が高く、食欲を増進させてくれますし、夏の果菜料理などの旬の食材が持つサッパリ感と抜群の相性を示し、そのおいしさをさらに引き出してくれます。秋の「ひやおろし」は熟成したリッチな味わいを持ち、これから寒い冬に向かう身体づくりに効果がありますし、秋の旬の食材の旨味タップリの味わいと抜群の相性を示し、その高い栄養価とおいしさをさらに引き出してくれます。冬の「燗酒」は全身に沁み込む旨さを持ち、身体を温める効果が高いですし、冬の根菜料理などの旬の食材が持つ優しい旨味と抜群の相性を示し、そのおいしさをさらに引き出してくれます。また冬の「しぼりたて新酒」の原酒タイプも、リッチな旨みがあり、「燗酒」同様に冬の食材と好相性を示します。季節感や旬、そして理にかなった季節ごとの効用は、世界のアルコール飲料の中で唯一日本酒のみに与えられた、最大の特徴なのです。
また、旬の日本酒などと言われても、「お酒は、1年中同じ銘柄の定番酒に決めている」という方もいらっしゃることでしょう。そういう方のためにも、日本酒は底力を発揮するのです。同じ銘柄の定番日本酒であっても、春や夏は新酒傾向があり、秋や冬は熟成酒傾向がありますから、そのままでも少しは旬の料理とマッチする傾向を持っています。これを、季節によって飲む時の温度を変えてあげるだけで、一層旬の料理と見事な相性を示すようになるのです。春は「常温」(20°C程度)や「涼冷え(すずひえ)」(15°C程度)で、夏は「花冷え(はなひえ)」(10°C程度)や「雪冷え(ゆきひえ)」(5°C程度)で、秋は「常温」(20°C程度)や「人肌燗」(35°C程度)で、冬は「ぬる燗」(40°C程度)や「上燗(じょうかん)」(45°C程度)でという具合に、季節に合わせて温度を変えて楽しんでみましょう。定番の日本酒であっても、見事に旬の料理と好相性を示します。日本酒は、様々な温度で楽しむことが可能な、世界でも稀なお酒でもあるのです。なんとありがたいことでしょう。
【日本料理は抽き算の料理、日本酒は抽き算の酒】
また阿部氏は、「日本料理は抽き算の料理」であると書かれています。日本料理では、よく出し汁を引く、灰汁(あく)を引く、湯引きするなどというように引く仕事が多いですが、この「引く」という字に「抽く」(※ここでは「ぬく」ではなく「ひく」と読ませています。)という文字を当てると大変分かりやすくなると、阿部氏は語られています。つまり出し汁を引くというのは、たくさんの削り節を湯の中に入れて、削り節の中のうま味成分を湯の中に「抽き出す」ことです。削り節は捨てるか、捨てないまでも主役にはなりません。灰汁を引くというのは、食材の持っている苦味やえぐみ、ときには匂いなどを取り除くことです。湯引きというのは、魚などの好ましからぬクセなどを湯の中をくぐらせることで取り除き、好ましい部分だけを利用しようとする調理技術です。このように下ごしらえをした素材を使って料理すると、非常に冴えた味のものを作ることができると説明されています。
そして、日本酒も「抽き算の酒」であるといえるでしょう。日本酒造りの最初の段階に精米がありますが、これは玄米の表層部分には酒造りに不必要な雑味になる成分が多いため、これらを取り除く(抽き算)ために行います。通常は精米歩合70%程度には磨かれます。表層部分を30%程度削るということです。吟醸酒造りではさらに多く削り取り、精米歩合60%以下、大吟醸では精米歩合50%以下にまで磨くのです。原料の米を磨けば磨くほど、より凛とした冴えた味わいの日本酒になるといえます。そして、この精米の工程において、高精白が可能になったことで、吟醸酒がこの世に誕生したといえるわけです。「抽き算」の思想が吟醸酒を生んだのだともいえるでしょう。
【“饗”という概念】
さらに阿部氏は、日本料理を正しく理解するためには、“饗(あえ)”という概念を知らなければならないと語っています。“饗”とは単なる食べ物のことではなく、神や自分より高貴な方を饗応することを意味します。“饗”の起源は古く、田の神様や山の神様などをお招きし、ご馳走したのが始まりです。日本の宮中の祭事に関して記録した平安時代の「延喜式」を見ると、この時代に料理院という役所があったことが分かります。料理院とは、宮中の料理を司る役所で、たとえば朝鮮王朝から使者がくると、ご馳走をしておもてなしをすることが“饗”であり、そのような食べ物を「料理」といいました。日本では“饗”という概念から、おもてなしの心のこもったものを料理とし、後には広く饗応することを意味するようになりました。平安時代に行われた“大饗(だいきょう/おおあえ)”というのは、天皇が臣下にご馳走したもので、現在もその当時の大饗の料理を記録したものが残されているといいます。つまり、日本料理は饗応を目的としたものであり、おもてなしの心のこもったものなのです。そして、饗応には酒が欠かせません。日本料理は、その目的からして、日本酒とは切っても切れない、不可分の関係にあるのだといえるでしょう。
【「日本料理 龍吟」山本征治氏の「日本料理とは?」、そして「日本料理の可能性」】
続いては、現代の日本料理界のトップを走る、いま業界を牽引されている料理人の考え方もご紹介しておきましょう。「日本料理 龍吟」の山本征治氏です。「龍吟」は、世界のベスト50レストランやミシュランの三ツ星にも連続で輝く日本料理店で、代表の山本征治氏は、海外の料理学会に度々招聘され、日本代表として数々の新たな日本料理の技術などを発表し続けている、日本料理の伝道師でもあります。NHK「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」にも出演されましたので、ご存じの方も少なくないでしょう。なお、以下の山本氏の言葉や考え方は、ご著書の「日本料理 龍吟」(山本征治 著 高橋書店 2012年5月10日発行 7,000円+税)に掲載されているものです。
まず山本氏は、北大路魯山人の「理を料る(ことわりをはかる)」という言葉を挙げ、なぜそうするのかという、感覚だけではない明確な理論をもってして、その根拠を突き詰めた「理」がなければ、「料理」とは言えないと語っています。師匠がこうしていたから、あるいは本に書いてあったからと、そのまましたのでは、いつまで経っても「理」を見出すことはできないというのです。たとえば、ここにキュウリがあったとして、そのままでは料理ではなく素材です。それを半分に切ったとしても、それだけでは料理ではありません。しかし、このキュウリは採れたてで、本当に瑞々しく果物のようにおいしいものだから、あえて半分に切ったものを、じかに触って手で持って、真ん中の瑞々しいところからかじってもらいたい。その触感とか質感も味わってもらいたい。だから、私は半分に切っただけのキュウリを、あなたに差し出したのです......となると、それは「理を料った」ことになります。そういう、思いをもって伝えようとする行為が、料理になるというのです。やっていることは同じでも、「理」があるのかないのかで、料理になるかどうかが決まる。そして実は、これは精神的なもので、日本料理ではその精神性が非常に重要な部分を占めるのだと。日本料理というのは、まず自分自身にこうした精神が宿っていなければならないと、山本氏は語るのです。
そして、「日本料理とは?」という問いに対して山本氏は、「日本料理には高い精神性がある。その精神こそが、日本料理のアイデンティティだと思うのです。」と語っています。さらに、「その料理を見たとき、味わったときに、そこから日本ならではの、季節感や素材感をとらえることができ、それを愛でることができる。そして、確かな素晴らしさを感じ取ったときには、そこに日本人としての誇らしい気持ちが宿る。この国に暮らすことや、自然環境を心から愛することができる。それが日本料理だと思うのです。」と書かれています。
さらに山本氏は、「日本料理の可能性」というタイトルで、次のように書かれています。「日本料理は正しく修行する必要がある。これは何より重要なことです。しかしながら、伝統を重んじるあまり、そこから一歩も出ていないのではありませんか。先人たちのやり方を、なぞらえることだけが、はたして今、大事なことなのでしょうか。もちろん、先人が至った境地を探るべく料理をする方法もあります。なぜ、先人たちはこんなやり方を考えたのだろう。その真意はどこにあったのか。そんなふうに『古き』をたずねることは、とても大事です。しかし、そこに留まるだけでなく、『新しきこと』を作りあげる。つまり、温故知新こそが今、求められていることではないのでしょうか。」......そして山本氏は、以下のとおり語るのです。「料理は発展していくものです。なぜなら、昔と今では、環境が違う。10年前、20年前と今では、キッチンツールにしても情報にしても享受するものが違います。にもかかわらず、昔の人たちがそのときに至った境地(もちろん、当時は最高だったものですが)を愛でているばかり......。昔の人が「今」の我々を見たら、あなたたちのまわりにどれだけ夢のような素晴らしいものがあるのか、認識しているのか。なぜ、それを活用せずに過去のままを踏襲しているのか。それは怠慢ではないのか。そう言われるに違いないと思うのです。君たちは何をしているのかと、先人たちから問いかけられている気がして仕方がないのです。」と。
そして山本氏は、この言葉のとおりに、日本料理を進化させ続けています。もはや完璧に完成された料理であると思われているような、たとえば「アユの塩焼き」などの料理法を、「理を料り」ながら、さらに進化させているのです。「ハモの骨切り」に至っては、ハモをCTスキャンにかけて、その骨をこと細かく調べあげ、ハモの必殺の切り方をついに判明させています。そして、この書籍にも詳しく掲載されていますが、YouTube動画にもこのような日本料理の新たな技術が、惜しげもなく公開されているのです。私は、この山本氏の挑戦を知るまでは、いわゆる伝統的な日本料理というものは、その長い歴史と技術の蓄積などにより、既に究極の完成形に到達しており、これ以上の進化などあり得ないと、漠然とではありますが勝手に思い込んでいました。しかし、日本料理にはまだ「進化」の余地があり、しかもそこに日夜挑戦し続けている料理人がいるということを知り、雷に打たれるほどの衝撃を受けたのです。日本料理にまだまだ進化の余地があるのならば、日本酒にもまだまだ進化の余地があるはずです。そして、そこに司牡丹が挑戦しなければ、いったい誰が挑戦するのかと、今では思っています。日本酒の進化......その技術的な進化につきましては、当社の浅野杜氏を中心とした醸造部にて、高知大学や高知県工業技術センターなどとともに、日夜挑戦し続けています。さらに精神的な進化につきましては、私が「酒道黒金流」というカタチで、日夜挑戦し続けているのです。