【門前編】日本料理のバランスと完成度、日本酒のバランスと完成度

First part of the gate

【門前編】日本料理のバランスと完成度、日本酒のバランスと完成度

前回は、料理店で提供される高度な技術を要する料理である「日本料理」について、「日本料理とは?そして日本料理の可能性、日本酒の可能性」というタイトルでお届けしましたが、まだまだお伝えしたい内容が残っておりました。そこで、今回も前回に引き続き「日本料理」について、「日本料理のバランスと完成度、日本酒のバランスと完成度」というタイトルでお届けしたいと思います。 【日本料理のバランス、日本酒のバランス】 今回も、前回と同じ2冊の書籍を参考にさせていただきました。1冊目は、全国日本調理技能士会連合会師範会最高顧問であり、日本料理の歴史を系統だてて語れる数少ない語り部の料理家、阿部孤柳(1925年〜2010年)氏の著書「日本料理の真髄」(阿部孤柳 著 講談社+α新書 2006年8月20日発行 838円+税)です。2冊目は、現代の日本料理界のトップを走る、いま業界を牽引されている料理人、「日本料理龍吟」の山本征治氏の著書「日本料理龍吟」(山本征治 著 高橋書店 2012年5月10日発行 7,000円+税)です。ちなみに「龍吟」は、世界のベスト50レストランやミシュランの三ツ星にも連続で輝く日本料理店で、代表の山本征治氏は海外の料理学会に度々招聘され、日本代表として数々の新たな日本料理の技術などを発表し続けている、日本料理の伝道師でもあります。NHK「プロフェッショナル〜仕事の流儀〜」にも出演されましたので、ご存じの方も少なくないでしょう。 ではまず「日本料理の真髄」から、「おいしい味を集めるとうまくなるか」というパートをご紹介いたしましょう。まず、著者の阿部氏は、おいしい味をたくさん集めると、ものすごくおいしくなるでしょうか、と問いかけ、そういうわけにはいきませんと語っています。味は濃厚になるかもしれませんが、冴えた清々しいうまみはなくなってくるというのです。たとえば、ハマグリの吸い物にシジミを加えたり、おいしいタイと新鮮なイワシを一緒に煮たら、もっとうまくなるというものではないのですと語っています。これは“二重味”といって、それぞれの食材の持ち味が相殺されるからです。さらに三重、四重といろいろな味が重なると、いっそう単味の個性がなくなっていくというのです。ただし、反面、味が加算されることで一重の単味にはない別のうまみが出てくることはあるといいます。一般に「土産土法(どさんどほう)」(その土地でとれたものを、その地の調理法で食べること)の郷土料理などは、そのようなごった煮のうまさです。フランス料理のブイヤベースは、海岸でその日に獲れた魚介を鍋に入れてごった煮にした料理で、フランスの漁師たちの原始的な料理だといわれていますが、本来は売り物にならない首の取れた魚や雑魚などをひとつの鍋で煮たものです。こういう料理は、うまみが出る一方で臭みなどが出るリスクもあり、必ずスパイスや香草などの力を借りなければ、食えなくなります。日本の農村や漁村で見られる野菜や魚などのごった煮も、ブイヤベースと同じで、決してまずくはならなくても単味のうまみは失われるのだと語っています。しかし、合性といって、一緒に煮るとうまくなるものもあるのだといいます。タケノコが出てくる季節になるとワカメが出てくる。こういうものは合性がよいといって、若竹椀などの、うまい季節の料理になります。日本料理には、外国の料理のように臭みや好ましくない味を消すための香草やスパイスはあまりなく、季節によって旬のよい香りを持った野菜や野草が出てきます。うど、芹、春菊、ネギ、三つ葉、嫁菜などはその例で、こうした香りの野菜には、ネギと鴨、三つ葉と小柱などのように必ず合性のよい肉や魚介があり、日本料理の単味のうまさを引き立てます。合性のよいもの同士を出合わせると、それぞれが互いの単味のおいしさを引き立ててくれるのだというのです。 また阿部氏は、献立のすべてに最高の料理を作って出すと、食べる人は重苦しくなって、一品一品の料理のうまさも際立たなくなることが多いと語っています。会席料理の流れの中における料理の演出に“三改敷(さんかいしき)”がありますが、これは順序のある会席献立では、すべての料理に均等に力を入れて作るのではなく、献立の流れの中でもっとも力を入れるのは三ヵ所に絞ったほうが全体のバランスがよい料理になる、ということを教えているものだといいます。たとえば、うな重を食べさせるときに最高の米で飯を炊き、最高のうなぎを蒲焼きにし、最高のたれで焼き上げ、それに最高のカツオ出しを濃厚に引いた肝吸いを添えても、客はあまり「うまい」とはいいません。うな重をおいしく食べさせるには、むしろあっさりした出し汁で作った肝吸いを添えたほうが蒲焼きのうまさが引き立つのだといいます。「三改敷」とは、こうした実例をふまえて、献立には山場を三ヵ所作るのが優れた料理人の才覚であり、客への配慮であると教えているのだと語るのです。 一方、山本征治氏は、著書である「日本料理龍吟」の中で、「足りない法則。ご褒美の法則。」というパートにて、全体のバランスをとるには、すべてのバランスをとってはいけない......という理屈に合わないことが発生すると語っています。なぜかというと、それは、主となるもの、まわりに添えてあるもの、その一つ一つを、すべて完成されたもので構成すると、食べたときに、さほど完成度の高いものにならない、ということが起こるからだというのです。たとえば、ペトリュスでもラトゥールでも(注:ボルドーワインのシャトー名)’61年と’82年と’90年といったグラン・ヴィンテージばかりを集めて、それを10ccずつ全部混ぜて飲んでみると、バランスがくずれ、強い個性同士がぶつかり合い、純粋なテロワールを反映したもとのものより、混ざり合わせたもののほうがおいしいとは感じないのではないかといいます。完成されたものばかりが揃っていても、そこにストーリーは生まれないからです。日本人の感覚を表す「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉が存在するのも納得ですと語っています。そして、足りないものばかりが集まったとして、ここにあれがあったならなあ、というものがポンと入ると、途端に全体がすんなりまとまったりする、これを山本氏は「ご褒美の法則」と表現するそうです。それがバランスということで、一個一個がおいしいということがバランスではない、と。足りない法則を「わざと」作る、それが料理屋の料理なのですと語っています。また、最初から全部同じ味に作ると、一口目はおいしいかもしれないけれど、すぐに満たされてしまうし、飽きもするといいます。恋の駆け引きと同じで、焦らすということも大事なのだというのです。さらに、ご褒美の法則を操れるようになると、料理に色気を表現できるようになると語るのです。 そして、日本酒の場合も同様であるといえます。最高の米、最高の水、最高の杜氏の技、ひとつひとつがいくら最高であっても、決して最高の酒ができるとは限らないのです。あくまで「米」「水」「技」、その3つのバランスが大切です。たとえば、兵庫県特A地区の特上「山田錦」と、日本酒造りの名水として名高い灘の宮水を使って、吟醸酒造りの基礎をつくったと言われる広島杜氏のトップ杜氏に酒造りを依頼したとしても、最高の日本酒を醸すことは難しいでしょう。なぜなら、灘の宮水は硬水であり、広島杜氏は軟水醸造法を開発し、その技を究めていますから、「水」と「技」がかみ合わないからです。また、たとえば全国の名だたる銘酒の最高ランクの純米大吟醸酒を集めてきて、それらをブレンドしても、決して最高においしい日本酒にはならないでしょう。各蔵の個性同士がぶつかり、バランスがくずれるからです。さらに、全国の天才杜氏と呼ばれる方々を集めてきて、彼らに1本の最高の日本酒を造らせようとしても、まず失敗するでしょう。1人1人の杜氏の個性やポリシー、醸造法などが違い過ぎ、1つにまとめることができず、マイナスにしかならないからです。つまり、最高においしい日本酒とは、「米」と「水」と「技」のバランスの上に、その蔵ならでは個性やポリシーなどが加わり、杜氏や蔵人ら造り手が調和しながら一丸となって携わってこそ、初めて誕生するものなのです。 【日本料理の完成度、日本酒の完成度】 お次は、山本征治氏の「日本料理龍吟」より、「言っていることをほんとうにやること。」というパートをご紹介いたしましょう。山本氏は、日本料理には、フランス料理のエスコフィエ(注:現在のフランス料理のバイブルといわれる「料理指針」の著者)のような、「アリュメット(注:野菜などをマッチの軸のように細く切る切り方)はこの大きさ」といった、明確な共通言語があまりなく、店によってまったく異なると語っています。「何となく」が日本料理には多すぎるというのです。そして、曖昧さをなくそう、理不尽さをなくそうとすることは、疑問に思っていることを本気で解明することにつながるのだといいます。たとえば、ハモの骨切りは「このようにやれよ」と言われてやっているだけで、なぜそうするのか、自分で解明した人はそんなにいないはずだと語るのです。なぜそうするのか問われても、先人たちがそう教えてくれたから、で止まっている。それで、おいしいと評価を得ているので、結果よし、というわけです。大昔に開発された技術に対して、もっとできないのか、となぜ思わないのでしょうと、山本氏はいうのです。たとえば白和えの衣は、丁寧にすり鉢であたって、3回ぐらい目の違う裏ごしでこしたら、きれいな衣ができるといいますが、それをフードプロセッサーでやったら、瞬時に泡立てた生クリームのようになめらかにできます。そんなマシンなど使って、ということではすでにありません、と。そういった状態を求めるがために裏ごしをしていたのなら、同じ状態にできるツールがあるなら、使うべきだというのです。お客様のために料理を作っているのなら、完成度が何より大切であり、料理人のこだわりは、よくも悪くも、その先には立たないのですと、山本氏は強く語るのです。 私は、酒造りもまったく同じであると考えており、この山本氏の考え方に大いに共感します。例として、酒造りの「洗米」の工程を取り上げてみましょう。今から30年ほど前は、最高ランクの大吟醸酒に使う精米歩合40%以下まで磨いたような米は、機械で洗うことができなかったため、どこの蔵も手洗いでした。杜氏がストップウォッチ片手にスタートの合図を出し、蔵人総出で手洗いの作業をし、杜氏が米の水分吸収の状況を見極めてから、再び蔵人総出で水を切るというような作業です。いかにも伝統的な職人技と言えますが、実はこの一連の工程は、誤差だらけだったのです。どれほどの天才杜氏であったとしても、洗米の作業は1人ではできません。大勢の蔵人を使って洗米しなければならないのです。寒い冬に冷たい水で手洗いしますから、どうしても蔵人によって洗い方に誤差が出ます。さらに、たとえストップウォッチで秒単位の時間を計っていたとしても、全て同時に大量の米の水を切ることはできせんから、ここでも誤差が出ます。手作業のままでは、この誤差を無くすことはできなかったのです。それが、近年開発された洗米機を使えば、これらの誤差を無くすことができるようになったため、当社ではこの洗米機を導入しています。まず、空気と一緒に米洗いを行うことで、手洗いよりきれいで割れにくく、誤差なく洗えます。さらに、重量を計りながら洗いますから、米の水分吸収率がひと目で分かり、水切りも瞬時に行えますから、ここでの誤差も無くなります。これらの誤差を無くすことにより、洗米後の酒米の品質は格段にアップすることになります。この早い段階での品質アップは、「蒸し」「製麹」「酒母」「仕込」「発酵」等の、その後の全ての工程に影響します。つまり、醸される酒の品質アップに、完成度に、大いに貢献するということなのです。ちなみに、ではこの洗米機さえあれば、誰でも簡単に最高の洗米ができるのかというと、それは違います。酒米は品種によって性質が違いますし、毎年の気候によっても溶けにくかったり溶けやすかったりとその性質は変わります。これらを見極め、さらにどういう麹を造りたいか、どういう酒を醸したいかによって、洗い時間をどうするか、水分吸収率をどうするか......等々を、杜氏が判断しなければなりません。伝統の匠の技は、ここにあります。洗米機が行っていることは、手洗いでは無くすことのできなかった誤差を無くすことにあり、そのための道具として使われているというだけのことなのです。そして、こちらの道具を使った方が日本酒の完成度が高くなる、つまり、よりおいしい日本酒ができるのですから、私は迷わずこちらを取ったということなのです。 また、山本氏は「料理が好きで料理人。」というパートにて、次のように語っています。「『龍吟』は私1人ではやっていけません。私の力なんてこの腕2本だけであり、私の思想を料理に変え、サービスに変え、はたまた学会発表や映像配信......すべてのことは、私を陰で支えてくれているチーム全員の力です。『私』=『龍吟』ですが、『龍吟』=『私』ではありません。『龍吟』=『チームの力』なのです。」と。そして、この点においても、酒造りはまったく同じです。どんな天才杜氏であったとしても、決して1人ではできないのが、酒造りなのです。それは、前出の洗米に限らず、あらゆる酒造りの工程についていえることなのです。昔から、酒造りにおいて受け継がれてきた言葉に「和醸良酒」という言葉があります。その意味は、和の心は良酒を醸し、良酒は和の心を醸す、というもの。酒造りに携わる人たちの和の精神によって良酒が生まれ、その良酒によってすべての人たち(造り手、売り手、飲み手)に和が生まれるという意味です。そしてそれは、杜氏を筆頭に蔵人らが和することによるチームの力でおいしいお酒が醸されるということであり、そのおいしいお酒を酌み交わすことで、さらに蔵内にも外にも和が拡がっていくということなのです。 つまり、まとめますと、日本酒の完成度をさらに上げていくためには、以下の3つがポイントになるということです。➀これまで長年培ってきた伝統的な手法や技術に対しても、「もっとできないのか」、「新たなやり方はないのか」という心構えで常に臨む。➁進取の気性を持ち、新しい道具も積極的に取り入れる。つまり、手作業では無くすことができないような誤差を無くすための道具として有効であるならば、醸造機械も積極的に導入する。➂おいしいお酒は、決して1人の天才によってできるものではなく、杜氏を筆頭に蔵人ら造り手全員が和することによる、チームの力によって初めて醸される。つまり、蔵内融和が第一である。......これらの3点を推進していく中で、自社が理想とするおいしいお酒に一歩一歩近づいていくことになり、日本酒としての完成度が上がっていくということなのです。 【日本料理と日本酒の関係、地域の伝統食と地酒の関係】 続いては、阿部孤柳氏の「日本料理の真髄」から、「酒は神様の食事」というパートを、以下にご紹介しておきましょう。「日本は稲作の国でした。稲の神様を祭るのが日本民族の信仰の基本であり、稲の神様のことを古代人は“サ”と呼んだといわれています。サカキという木は、“サ”の垣根のことで、ここから先は稲の神様の神域であることを示すために植えられた木です。神様の召し上がる食事のことを御食(みけ)といいますが、“け”は食事のことです。朝食、昼食、夕食のことを、朝げ、昼げ、夕げというのは食事を意味する“ケ”が濁音の“ゲ”となったものです。額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に、次のような有名な歌があります。『家にあれば、笥(け)に盛る飯も草枕、旅にしあれば椎の葉に盛る』......ここに読まれている“ケ”は、飯などを盛る器を指す『笥』という字が当てられています。器はすなわち内容を意味し、食事の代名詞でもありました。つまり、サケは神様の食事で、『お神酒あがらぬ神はなし』といわれるのは、お神酒が神様に欠かせない食物だからです。天皇が即位するときにお立ちになる人形ケースの箱のようなものは高御座(たかみくら)と呼ばれ、座という字を当てて『くら』と読ませます。(中略)座はそのような意味を持っているので、桜=サクラは神様(サ)のお立ちになる座(クラ)という意味になります。稲作を中心とした大和民族は、桜が咲くと桜の木の下で、先祖の神様とともに酒宴を張ります。酒は日本人の生活に密着した飲みものであると同時に、今日でも儀式には欠かせないものとなっているのです。」 さらに同書の、「一献」というパートもご紹介しておきましょう。「人にものをご馳走する、食事をもてなすということは、お国柄によっていろいろですが、日本では人を招く場合、第一に酒を飲ませる、一献差し上げることがもてなしとされてきました。そのため日本料理の酒と献立は関係が深いのです。殿様が家来に『ササを食べるか』といいます。ササは酒のことで、家来に盃をつかわすことは儀式であり、日本の儀式には酒は欠かせません。昔は人にお酒を差し上げるときは、必ず“あわびのし”というのしをつけました。現在ののしは紅白の紙を細長い六角形に折って真ん中に黄色いビニールのようなものが入っていますが、あれはあわびのしをかたどったものです。お祝いにお酒を上げるとき、酒樽だけをポンと置いていくということはなく、必ず酒の肴になるあわびののしたものを紙で六角形に包んで一緒に届けました。『一献、献じましょう』というのは、『お酒を一献ご馳走しましょう』という意味ですが、酒だけ飲ませて帰すということはしません。酒の肴というご馳走をつけて一杯飲ませます。そこにも、ちゃんと形式がありました。」 つまり、古来より稲作の国である日本では、日本酒は神事とその後の酒宴に欠かせない、日本人の生活に密着した飲み物であり、そして日本酒と肴は、お互いに単独ではなく、常に一心同体のように一緒に存在するものであったということです。それが近年は、どうでしょう。神事にこそ今でも用いられていますが、あらゆる酒宴から日本酒は姿を消しつつあります。それは時代の流れでもあり、ある意味しょうがないことであるのかもしれません。しかしさらに、近年は日本酒だけが単独で独り歩きしており、肴・料理・食からドンドン離れていっているのです。しかも、蔵元も酒類卸も酒販店も、自ら離れていっているようにしか見えません。蔵元自ら「〇〇コンテストで受賞!」などをウリにし、料理に合わせづらいグルコース濃度の高い、極めて甘い酒ばかりをアピールしています。酒類卸も酒販店も、有名銘柄や人気銘柄やコンテスト受賞銘柄ばかりを追い掛け、酒を酒だけでPRし、酒だけで売ろうとしています。飲食店ですら、有名銘柄や人気銘柄やコンテスト受賞銘柄を追い掛けています。それでは甘い酒だらけになり、酒の注文も料理の注文も減ってしまうということに気づいていないのです。 さらにその上、本来は地域ならではの個性や食文化とともにあったはずの地酒である日本酒が、ドンドンそうではなくなっています。地域ならではの個性とはかけ離れた新酵母などを使い、極めてフルーティで極めて甘い酒だらけになっています。それが、吟醸酒だけの話ならば、もともと吟醸酒は地域の個性からやや離れたところで新しく誕生した日本酒ですからまだしも、本来は地域ならではの食や文化とともにあったはずの純米酒や本醸造酒までが、ドンドン香りがフルーティになり、さらにグルコース濃度の高い極めて甘い酒になり、地域ならではの個性、地域ならではの食や文化からかけ離れていっているのです。ちなみに、地域ならではの個性、地域ならではの食や文化とともにあった地酒である日本酒本来の姿とは、次のような事例を挙げれば、お分かりいただけるでしょう。上品な白身のうま味が絶妙な秋田の「ハタハタの塩焼き」と、なめらかでキメの細かい秋田酒。濃厚な磯の風味が膨らむ宮城の「焼き牡蠣」と、やわらかなうま味の宮城酒。ナチュラルなコクが絶品の山形の「いも煮」(牛肉)と、透明感のあるうま味を持つ山形酒。海苔の風味とヌメリが独特の旨さの新潟の「へぎソバ」と、淡麗辛口で絹のような女酒の新潟酒。濃厚なうま味がたまらない岐阜の「飛騨牛の朴葉味噌焼き」と、濃醇辛口の岐阜酒。やわらかな小魚のうま味と酸味が絶妙な岡山の「ままかりの酢漬け」と、米のうま味が生きた軽やかな甘口の岡山酒。脂の乗ったうま味たっぷりの大分の「関サバの刺身」と、スッキリと淡麗で甘めの大分酒。そして、赤身のうま味とワラ焼きの風味が絶品の高知の「鰹のタタキ」と、その美味しさを出汁のように下から支えて押し上げる骨太な辛口男酒の土佐酒。......このような、地域ならではの豊かな個性から、豊かな食文化から、いまや日本酒はドンドンかけ離れていっているのです。 想像してみてください。食からも地域らしさからも、かけ離れた日本酒......その日本酒単独で飲んでいくら美味しくても、いくら素晴らしい賞を獲得していても、それは本来の日本酒の姿からすれば、根無し草なのではないでしょうか。食からも、地域らしさからも離れ、二重の意味で日本酒が単独で独り歩きしているというのは、やはりどこかおかしいのではないでしょうか。確かに、時代に合わせて変わっていくべきところは変わっていくべきだというのは事実です。しかし、いくら時代が変わっても、変わるべきではない大切なものもあるというのも事実なのです。日本酒がその本来の姿からかけ離れないためにも、食からも地域らしさからもかけ離れないためにも、「酒道黒金流」では、一口飲んだだけでは物足りなくとも、食材の素材そのもののおいしさを下から押し上げ引き立て、食がおいしくなり、ついつい杯が進むという、土佐ならではの辛口酒の王道のおいしさを、伝え広げていこうとしているのです。