【門前編】「料理と科学」「日本酒と科学」のおいしい出会い<前編>

First part of the gate

今回と次回は、前後編にわたって、宮城大学食産業学群教授で、分子調理学を専門とされている石川伸一氏の著書、「料理と科学のおいしい出会い〜分子調理が食の常識を変える〜」(石川伸一 著 株式会社化学同人 DOJIN 文庫 2021年7月25日発行 本体900円)という書籍をベースにさせていただいた内容をお届けいたします。まずは、近年おいしい料理の解明や新しい料理の開発に科学のメスが入ることにより、料理の世界が大きく進化を遂げていることなどを、まず皆さんとシェアさせていただきたいと思います。そして、日本酒の世界においてもそれは同様であり、日本酒と科学のおいしい出会いについても言及させていただきたいと思っています。 【料理人側からの「料理と科学の出会い」】 この書籍で著者はまず、調理には経験やコツが必要ですが、食べものがおいしくなる過程をとことん追求していけば、料理を「科学的な視点」で見ることが不可欠になってきますと語っています。そして、20世紀の終わり頃から、海外の一部の物理化学者たちが、料理を分子レベルで研究する動きが活発化し始めたのだといいます。科学者がおいしい料理の秘密を“分子のナイフとフォーク”で解き明かしたのです、と。またその一方で、一部の革新派のシェフたちが、現在、実験室で使われるような機器や器具を使って、それまで誰も見たことのない斬新な料理を登場させ、それらに「分子ガストロノミー」、「分子美食学」、「分子料理」などのタグが付けられ、多くの人々の関心を惹き付けたのだと語っています。そして著者は、近年、料理と科学は互いに急接近したが、この「料理と科学」の遭遇の歴史は、目線を変えることで、捉え方が大きく異なってくるのだと語り、料理人から見た「科学」と、科学者から見た「料理」、それぞれの立場に分けて解説されています。 まず料理人側の視点としては、スペインはカタルーニャ地方のレストラン「エル・ブリ」のシェフ、フェラン・アドリア氏の名が挙げられています。「エル・ブリ」は、その前衛的な料理で、1997年にミシュランの三ツ星を獲得、2006年より4年連続で「世界のベストレストラン」の第1位、そして世界で最も予約の取れないレストランとして有名でした。残念ながら2011年に惜しまれながら閉店しましたが、2014年に新たに「エル・ブリ財団」が創設されたのだそうです。そして、「エル・ブリ」で有名になった調理法の一つに、食材を泡にする「エスプーマ」という技術が紹介されています。生クリームや卵白を泡立てた「ムース」から着想を得て、亜酸化窒素などのバルブを使ってソーダをつくる器具を改良し、アドリア氏はエスプーマを完成させたのだとか。この調理器具は、空気の力だけで素材を泡立てることができるため、通常泡立たない食材、たとえばグリンピースやハーブなどの泡を使った料理がつくれるというもの。また、「エル・ブリ」のウェルカムドリンクとして出されていたジン・フィズは、上下二層になっており、下層にフローズン・ジンフィズが、上層には下層と同じベースのエスプーマ・ジンフィズが乗っていたのだそうです。新しい調理器具の開発によって、食材がこれまで持ちえなかった新しい食感の料理が開発できるのだという好例であるといえるでしょう。「エル・ブリ」の料理は、「人の五感すべてに働きかけ、さらに“人の脳をびっくりさせる”料理」を標榜していたのだといいます。そのため、これまで料理には使われていないような「道具」や「手段」を導入したのだそう。フラスコやスポイトなど実験室でおなじみの道具や、ソーダサイフォン、減圧調理器具といった当時の最新鋭機器を駆使し、食材を粉砕したり泡にしたりすることで、味や香りを失わないまま、胃袋にもたれないメニューを次々と考案したのだといいます。 さらにもう一人、イギリスはロンドン西部のバークシャーにあるレストラン「ファット・ダック」のシェフ、ヘストン・ブルメンタール氏の名も挙げられています。「ファット・ダック」は2004年にミシュランで三ツ星を獲得しており、2005年には「世界のベストレストラン」でトップに輝いているのだそう。ブルメンタール氏は、料理人であるにもかかわらず、大学の教授らと共同研究して科学論文を出しているばかりか、調理への科学的なアプローチという点が認められ、複数の大学から名誉学位の称号を取得しているのだといいます。そして、彼の料理を特徴づけるキーワードに「多感覚料理」という言葉があるのだそうです。おいしい料理に、味覚や嗅覚は必要不可欠ですが、さらにマルチな感覚に訴えるというもので、その代表的な料理が、「Sound of the Sea(海の音色)」なのだといいます。それは、「聴覚」がいかに風味に影響を与えるか科学的な研究を重ねてつくられた料理で、カキ、ハマグリ、ムール貝、海藻などの海の幸を使った料理に「iPod」が添えられており、客に「iPod」で波の音を聞いてもらいながらシーフードを堪能してもらうという、挑戦的な料理なのだそうです。 【科学者側からの「科学と料理の出会い」】 続いては科学者側の視点として、「分子ガストロノミーの父」と言われる、エルヴェ・ティス氏の名が挙げられています。ティス氏は、パリにあるフランス国立農業研究所の研究者で、調理プロセスにおける物理化学的な研究で知られているのだそう。彼は、物理学者のニコラス・クルティ氏とともに、1992年に第1回の「分子および物理ガストロノミーに関するワークショップ」をイタリアのシチリア島・エリスで開催したのだといいます。そしてティス氏は、当時から「分子ガストロノミー」という名前を提唱していたのだそうです。「分子」は、化学的、物理的という意味を指し、分子ガストロノミーには、それらの視点でガストロノミー(美食学)を研究するという意味が込められているのだといいます。そのため、分子ガストロノミーとは、科学的な手法を使って新しい料理を生み出すものではなく、「調理プロセスの中に見い出される現象のメカニズムを解き明かすこと」とティス氏自ら語っているのだとか。ティス氏の興味は、これまでの「おいしい料理の決まりごとを科学的に解釈すること」にあったのだというのです。 分子ガストロノミーは、これまでの食品科学と何が違うのかというと、ティス氏は「歴史の問題」であると語っているのだといいます。ティス氏が分子ガストロノミーを始めた1988年当時、食品科学は、食品成分の化学や食品技術に重きを置いていたのだそう。しかし彼は、ニンジンの化学的組成そのものにはまったく興味を示さず、ニンジンが調理でどのように変わっていくか、その現象を科学的に解明することに目を向けていたのだというのです。食品科学は必ずしも調理現象のメカニズムを明らかにすることを意味するわけではありません。しかし分子ガストロノミーは、食品科学の部分集合であるので、食品科学の一分野として認識するのは正しいと語っています。つまり、食べものを研究する学問の中で、調理する過程での食べものの研究に特化したものが、分子ガストロノミーだということでしょう。 そして、「料理分類学」の世界に分子の指標を持ち込んだのが「料理の式」であり、考案したのは「分子ガストロノミー」生みの親、エルヴェ・ティス氏なのだといいます。ティス氏は、まずフランスで重要とされる歴代の料理本を読みくだき、フランス料理の心臓ともいえる伝統的なソース350種類を自らひとつずつ作ってみては顕微鏡で分子状態を調べ、23のカテゴリーに分類したのだそう。その結果、あらゆる料理は“ふたつの要素”によって、物理化学の式で表せることを提唱しているのだといいます。その“ふたつの要素”とは、次のとおりです。

●要素その1(食材の状態)
G(ガス):気体、W(ウォーター):液体、O(オイル):油脂、S(ソリッド):固体

●要素その2(分子活動の状態)
/:分散、+:併存、⊃(含む、含まれる):包合、σ(シグマ):重層


このそれぞれ4つからなるふたつの要素を組み合わせることで、あらゆる食材や料理の成り立ちが説明できるとティス氏は語っているのだそう。たとえば、泡立てる前の生クリームは、「水の中に油脂が散らばっている」状態であるため、式に表すと次のようになるのだといいます。「O/W(油脂分散水)」。次に、「生クリームを泡立てる」という調理法は、油脂に空気を含ませるから、油脂(O)に空気(G)を加え(+)、その空気を含んだ油脂が水(W)の中に散らばっている(/)状態となり、式であれば「(O+G)/W(油脂併存空気分散水)」となるというのです。あらゆる料理をこの料理の式で表現することによって、これまでの分類法とはまったく違った観点で料理をカテゴライズし、さらに系統的に整理することによって、料理の新しい体系化が可能になるかもしれませんと、著者は語っています。「料理の系統樹」から、料理の意外な共通点や、料理の進化の過程が見えてくる期待が持てるというのです。また、さらに式を改変することによって新たな料理の開発への応用も考えられるのだといいます。たとえば、生クリームの式の油脂を表すOのところを、油脂分を含むチーズやレバーに置き換えたら、理論的にはホイップチーズやホイップレバーが作れるはずだと。さらに、油脂を含まない食材、たとえばトマトをジュースにしてオイルを加えれば、ホイップトマトも夢ではないというのです。このように料理を“式”で表し、式の中の食材を別のもので置き換えたり、式を変形したりすれば、その応用は限りなく広がっていくのだといいます。「この食材ではこの料理だ」という私たちの先入観が、新しい料理の発明を邪魔しているのかもしれませんと、著者は語っています。その点、「料理の式」を使えば、食材の固定観念に縛られることなく、どんな素材に対しても、物理化学的な特徴だけを考え、いろいろな食材を式にあてはめるだけで、思いもよらなかった料理が生まれる可能性があると語るのです。 【「料理と科学」の未来】 エルヴェ・ティス氏とニコラス・クルティ氏によって提唱された「分子ガストロノミー」は、創設者2人によって「技術ではなく科学である」と位置づけられ、新しい食材、道具、手法を用いて斬新な料理をつくる技術とは異なるという主張を続けてきたのだといいます。科学者とシェフの協力によって興味深い事実が発見され、また新たな調理法も開発されていましたが、分子ガストロノミーの創設者らは科学に固執し、シェフの分子ガストロノミーへの貢献を高く評価しなかったため、最初協力的であったシェフたちが次第に離反していったという過去があるのだそうです。2006年には、フェラン・アドリア氏など分子ガストロノミーとの関わりをよく取り上げられるシェフ数名が、自身らの料理のアプローチはその単語と一線を画すとの共同声明を出し、さらにヘストン・ブルメンタール氏は、イギリスの新聞のウェブサイトの記事内で、「分子ガストロノミーは死んだ」と語っているのだとか。このような経緯もあり、シェフの中には「分子ガストロノミー」という言葉にアレルギーを示す人も多くいるといわれているのだそうです。しかし、シェフらは、今後の新しい料理の発展にとって、科学の知識や新しい技術が不必要だと考えているわけではなく、むしろそれらが重要であるという認識を強く持っているのだと、著者は語るのです。 そもそも科学と技術は、その歴史や中身が異なるもので、「広辞苑」には、科学は「体系的であり、経験的に実証可能な知識」とあるのに対し、技術は「物事をたくみに行うわざ。科学を実地に応用して自然の物事を改変・加工し、人間生活に役立てるわざ」と記載されていると、著者は語っています。そして、科学と技術の方向性が異なることを認識することがまず大切ですが、何か新しいイノベーションを起こす際、科学と技術双方のチカラが必要であると認識することもまた重要であるというのです。実際、科学の活動も高度な技術を用いた実験や観測手段への依存を高めており、科学界で一番有名なノーベル賞も、新しい発見だけでなく、新しい発見を生み出すための技術にも積極的に与えられているのだといいます。科学と技術は、いわば“車の両輪”であり、料理と科学の世界、料理人と科学者の関係も、この科学と技術の関係と同じように感じられるというのです。そして、これまでの「料理と科学の進展」を振り返ると、料理人と科学者が互いの領域を共有するとき、料理に劇的な発展性をもたらしていると強く感じるのだと、著者は語っています。 そして、分子ガストロノミーの発展が妨げられたのは、前提条件の違い、つまり「言葉の定義」の失敗もあるように思うと、著者は語るのです。料理人が考える分子ガストロノミーと、科学者が考える分子ガストロノミーの定義の間に、齟齬があったように感じるというのです。そこで著者は、「料理と科学」の将来を考えるうえで、すでにいろいろな意味を持ちすぎてしまった「分子ガストロノミー」という単語は使わず、「分子調理」という言葉の定義について考えてみたいと語っています。まず、「調理」と「料理」という言葉の違いですが、「調理」は調え理める(ととのえおさめる)こと、つまり食品をおいしく、すぐ食べられるように調整することであり、一方「料理」は、食べものをこしらえること、またはそのできあがったもののことを指すのだといいます。一般に調理と料理の関係は、次のように考えられているのだそうです。「食材→調理→料理」。すなわち狭義の「調理学」は、料理をつくるプロセスを考える学問であり、「料理学」はできあがった料理をメインに考える学問であるといえるのだと。また、食材を主たる対象にするのが「食品学」で、広義の「調理学」は、料理のもととなる食材、調理という操作、そしてできあがった料理をすべて研究領域としているのだと語っています。 これらを踏まえて著者は、「分子調理」という言葉を、科学と技術の両面で定義できないかと考えているのだといいます。すなわち、「分子調理“学”」は、「食材→調理→料理」のプロセスにおいて、食材の性質の解明、調理中に起こる変化の解明、おいしい料理の要因の解明などを、分子レベルで行う“科学”であると定義するのだと。研究・開発でいえば、要素還元主義の研究分野であり、基礎・応用のくくりであれば、基礎研究にあたり、「分子調理学」はマクロからミクロを見る分析的手法を取るのだというのです。それに対して、「分子調理“法”」は、おいしい食材の開発、新たな調理方法の開発、おいしい料理の開発を、分子レベルの原理に基づいて行う“技術”であると定義するのだと。研究・開発であれば、複雑系である開発分野であり、基礎・応用のくくりでは、当然応用研究にあたり、「分子調理法」はミクロからマクロを眺める全体的手法を取るのだというのです。分子調理“学”と分子調理“法”は、互いに関係し合い、科学の分子調理“学”で発見した科学的知見を技術の分子調理“法”へと活かし、また反対に分子調理“法”によって生まれた新しい技術から分子調理“学”における新たな知見を引き出すといったように、互いが刺激し合うことで活性化するのだと語るのです。 そして著者は、「朝日新聞グローブ」の記事から、京都の料亭「菊乃井」村田吉弘さんのエピソードを紹介されています。村田さんは、各国で伸び盛りのシェフに日本料理を説明する際、型どおり「歴史や季節感を生かすことだ」などといってもあいまいすぎて相手に伝わらず、「なぜそうするのか」を科学的かつ論理的に納得させる必要を感じていたのだそうです。転機は、2002年に訪れたのだそう。京料理の要となる昆布だしについて、大学の研究者らによる実験で、「昆布のグルタミン酸を最大限に抽出するには、60℃を保って1時間加熱するのがいい」という結果が出たのだといいます。仲間同士でふだんのやり方を比べると、火にかける温度はバラバラで、徐々に温度を上げて沸騰直前に取り出し、カツオ節を加えてふたたび沸騰したところで火を消す、とうのが一般的なだしのひき方だったのだそう。代々受け継がれていて、そういうもの、と疑わなかったのだといいます。しかし、60℃、1時間加熱を続けて鍋の中の温度を85℃まで上げたら、火を消してからカツオ節を入れ、沈んだらすぐに濾すという手順の方が、実際にはよい結果だったのだとか。よりよい方法が分かったなら、それを試したい......京都の料亭はためらわなかったというのです。著者は、これこそが「料理と科学の幸運な出会い」なのではないかといいます。そして、料理人が分子調理学の「科学」という“フィルター”を新たに持つことで、料理はさらに前へと進み、よりおいしい料理の発展につながっていくのですと語っています。 そして著者は、科学と技術は相互に作用し合い、それは「ミクロとマクロの好循環」を生み出すと語るのです。分子調理学の原理をもとにさらにおいしい料理が発明され、さらにその新しい料理にひそむ原理を明らかにし、さらに新しい料理の開発につながるというサイクルだといいます。ミクロとマクロのスケールでいえば、食材の分子特性を知り、それを実際の料理に活かし、実際に食した経験から、また分子特性を考えるという、「ミクロ→マクロ→ミクロ」という流れなのだと。この好循環を生み出せれば、料理の基礎と応用を磨いていくことができるのだというのです。このことを著者は、アイスクリームの例を挙げ、大変分かりやすく説明しています。まず、「マクロからミクロ」の観点からアイスクリームのおいしさを考えれば、その風味やコクはもちろんだが、何といってもその「舌ざわり」が重要であるといいます。アイスクリームのクリーミーな舌ざわりは、アイス組織中の氷の結晶の大きさと密接な関係があり、氷結晶の大きさと舌ざわりの関係は、顕微鏡で観察すると、氷結晶が「35マイクロメートル未満→著しくなめらかなアイスクリーム」、「35〜55マイクロメートル→なめらかなアイスクリーム」、「55マイクロメートル以上→粗いアイスクリーム」となるのだそうです。このように、アイスクリームのおいしさを分子レベルで基礎的に研究することが、マクロからミクロの流れの分子調理、すなわち分子調理学の特徴といえると著者は語っています。次に、「ミクロからマクロ」の視点で考えると、分子レベルでの解析から、氷結晶が小さければ小さいほどアイスクリームがなめらか、すなわちおいしくなるということが分かれば、氷結晶化を抑え、凍らせる時間を短くできる技術を考えることになるといいます。凍らせる時間の短縮化に最適な手法は、現状では「液体窒素」がベストなので、液体窒素を使って瞬間的に凍らせたアイスクリームはクリーミーでおいしくなるはずだというのです。アイスクリームがおいしくなる原理に基づいて、最適な手法を用いて料理を応用的に開発するのが、ミクロからマクロの流れの分子調理であり、すなわち分子調理法なのだと著者は語っています。 【「日本酒と科学」のおいしい出会い】 さて、ここからは、「日本酒と科学」のおいしい出会いについて考えてみましょう。ここまで見てきた「料理と科学」のおいしい出会いと同様に、日本酒業界の発展にとっても、科学の存在はもはや欠かせません。その歴史をザッと見てみると、明治37年には国立の醸造試験所が開設され、明治43年には「速醸酛」が開発されており、このあたりから既に日本酒の製造に科学理論が不可欠になっているのです。そして、昭和初期には技術革新が相次ぎます。まず竪型精米機が発明され、酒米の高精白が可能となり、「吟醸酒」の誕生につながります。続いて、ホーロータンクが登場し、温度管理や微生物管理が容易になっています。お次は、協会酵母が採取、分離、純粋培養され、日本醸造協会から頒布されるようになります。こうして、昭和10(1935)年頃までには、酒造の近代化、効率化を迎えるのに必要な計器や機器類がほぼ出そろっているのです。さらに、昭和の末期から平成初期にかけてのあたりから、全国各地で独自の新酵母開発競争(静岡酵母、長野アルプス酵母、山形酵母、秋田酵母、高知酵母等々)が起こることにより、日本酒は一気にフルーティになっていくのです。また、広島杜氏などの伝統的な杜氏集団の人材が減少してきたこともあり、東京農業大学の醸造科学科を卒業した「蔵元杜氏」や「社員杜氏」も、この頃から増加していき、「醸造“学”」を学んだ上で酒蔵にて「醸造“法”」を実践するという杜氏が、全国で増加の一途となっているのです。ちなみに司牡丹酒造も平成16(2004)年より、伝統的な広島杜氏から、東京農大醸造科学科卒の浅野徹が、社員杜氏に就任しています。 そして、令和3(2021)年度高知県産学官連携産業創出支援事業に、高知大学理工学部化学生命理工学科の小﨑大輔講師と司牡丹酒造の共同研究である、「小規模酒造でも実施可能な超短期的かつ自在な新酒開発事業の創出」が採択されました。これは、小﨑講師が考え出した日本酒の主要成分を一度に調べることができるという世界初の分析方法を使い、従来は3〜5年ほどはかかっていた新商品の開発が1年ほどででき、しかも費用も大幅に抑えることができるという、極めて画期的なシステムです。高知県には18の酒蔵がありますが、小規模な会社が多く、資金や人材や機材などが不足しており、限られた資源のなかで収益拡大を目指すには商品開発が欠かせません。そこで、県内企業を支援する高知県工業技術センターでは近年、新酵母である「高知酵母」を精力的に開発してきました。しかし、新酵母で醸造するとどういった成分が生まれ、どのような日本酒ができるのか、不明な部分が多くあり、そのため、良い酵母かもしれないとは思っても、酒造会社は手を出しにくい状況にありました。たとえば、非常に香り高い酒ができると現在大人気の高知酵母「CEL24」も、多くの酒造会社が使うようになるまでには20年以上もかかっています。こうした従来の酒造りが持つ問題点が、今回の共同研究によって解消される可能性が出てきたのです。日本酒を醸造する場合、どういった味わいになっているのか、実際に試飲してみることに加えて、成分の分析が欠かせません。日本酒の場合、特に重要な成分は、糖、有機酸、アルコールの3つです。これら複数の成分を調べる場合、別々の分析機器が必要となり、必要な機器を全て揃えるには、約600万円という大きな設備投資が必要となります。これは、中小の酒造会社では難しいため、高知県工業技術センターに分析を依頼するのが通常です。しかし、同センターのキャパシティには限りがあり、県内の全酒蔵のサンプルを全て分析するのは不可能です。そこで、小﨑講師が考え出したこれまでにない世界初の分析方法が、日本酒に含まれる糖、有機酸、アルコールの同時分析法、「MFS-IC」なのです。これにより、➀日本酒の甘口・辛口を決める糖の一種であるグルコース(ブドウ糖)、➁ヨーグルト臭のもととなるピルビン酸、爽やかさ(酸度)に影響するクエン酸やコハク酸、リンゴ酸などの有機酸、③アルコール度数に関係するエタノールなどの成分を、1つの分析機器で一気に分析できるようになったのです。小﨑講師は、「『MFS-IC』を使うと、解糖系やクエン酸回路など、基本的な生化学反応回路に関連する成分のほとんどを一度に分析できます。自画自賛になりますけど、これはすごいぞと思いますね(笑)」と語っています。しかも、従来の分析方法とは違って、必要な分析機器は1台のみでOKであるため、かかる費用は約200万円と、これまでの3分の1の設備投資で済みます。分析に要するスタッフ数や拘束時間についても削減でき、これらも3分の1程度で収まるといいます。酒造会社にとっては、メリットしかない方法であるといえるでしょう。 さらに、「MFS-IC」の大きな利点はもう1つあり、従来とは比較にならないスピードで、新商品を開発できるようになります。新しい酵母を使う場合、どんな日本酒ができるのかよく分からないため、通常3年から5年ほどかけて調整し、完成に近づけていきますが、「MFS-IC」を使えば、商品化までの道のりを大幅に縮めて1年ほどで完成させることが可能になるのです。この共同研究は、令和3(2021)年10月にスタートし、初年度は発酵に関連する条件を変えながら、5lという少量の試験醸造を実施しました。条件の要素は醸造開始温度(3通り)、タンク管理温度(3通り)、加水時期(3通り)、加水量(2通り)の4つで、各要素に様々な条件を組み合わせて醸造すると、成分が異なる計54通りの酒が仕上がります。そして、成分データを見れば、どういった味わいなのかだいたいの見当がつくため、それぞれの成分データを参考にして、開発したい酒に合った条件で醸造すればよいというわけです。2年目の令和4(2022)年10月からは、初年度のデータをもとに、司牡丹酒造にて100lでの試験醸造がスタートしています。浅野杜氏も、「データをすぐに確認できるので、理想とする酒に早くたどり着けるようになる」と悦んでいます。そして社長である私も、遠くにある未来を目の前に引き寄せてくるほどの画期的な方法であると感じており、大いに期待しています。さらに将来的には、研究成果を全て高知県工業技術センターに伝達し、土佐酒18蔵全てがこの方法を利用できるようにすることを目指しているのです。