今回は、前回に続いての「後編」の予定でしたが、予想より長くなってしまいましたので、「中編」とさせていただき、次回を「後編」とさせていただきましたので、ご了承ください。内容は、「前編」に引き続き、宮城大学食産業学群教授で分子調理学を専門とされている石川伸一氏の著書、「料理と科学のおいしい出会い〜分子調理が食の常識を変える〜」(石川伸一 著 株式会社化学同人 DOJIN 文庫 2021年7月25日発行 本体900円)という書籍をベースにさせていただいています。そして今回は、「好き嫌い」についてや、「味」、「におい」、「テクスチャー」、「温度」を感じるの科学などについて、皆さんとシェアさせていただき、そして、それぞれにおいて日本酒についても言及させていただきたいと思っています。
【おいしさは「脳」にある!好き嫌いが生まれるメカニズム】
まず著者の石川氏は、おいしさは「料理」の中ではなく、「脳」の中にあるのだと語っています。つまり、「おいしいっ!」と感じるプロセスは、食べものの「情報」を脳に伝える「伝言ゲーム」のようなものだというのです。たとえば味覚では、食べものの中に含まれる味分子が、舌の味蕾にある味細胞表面の味覚受容体に作用します。すると、味細胞がそのシグナルを神経細胞に伝え、最終的に脳に伝わります。具体的には、味分子が、細胞内にさまざまな情報伝達物質に変換され、脳へとたどり着き、甘いとかしょっぱいという情報として処理されます。つまり、味の情報は、味分子→受容器レベル→神経伝達レベル→脳機能レベル→認知・知覚レベルへと順次伝わっていくのだというのです。さらに、脳への伝言ゲームは、味覚だけでなく、食べたときの嗅覚、視覚、聴覚、触覚の情報も同時に行われ、さまざまな感覚がアマゾン川の支流と本流が合流するように、統合された情報を総合して、「このケーキ、おいしい」とか、「カレー、おかわり!」と感じるようになるのだと語るのです。
次に著者は、好き嫌いが生まれるメカニズムについて、私たちのおいしさの判断は、一種の二重構造になっていると考えられていると語っています。それは、大脳辺縁系(古い脳)の扁桃体での動物としての基本的な「快・不快」の判断と、ヒトに顕著に発達した大脳皮質(新しい脳)の連合野での文化、習慣、個人などの経験に基づいた「おいしさ」の判断です。両者の判断は、互いの情報に強く影響されるのだといいます。扁桃体のほうが、安全性を判断する本能的なものであるのに対し、大脳皮質は情緒的であるといえます。扁桃体で感じる生得的なおいしさと大脳皮質で感じる後天的なおいしさがせめぎ合う中、現代は、食の情報の氾濫によって、おいしさの感覚が大脳皮質の連合野が優位になっている状態かもしれないと語っています。誰でもおいしいと思う料理と、好き嫌いが分かれる料理があるのは、脳の食に対する嗜好が、生まれつきの好き嫌いがベースになっているものの、後天的な要素である学びによってどんどんバージョンアップされていることによるからだというのです。楽しい雰囲気の中で食べたものが好きになったりする「味覚嗜好学習」や、ある料理を食べてお腹が痛くなったりすると、その料理が嫌いになったりする「味覚嫌悪学習」を繰り返すことによって、その人の味の好みが次第に固まっていくのでしょうと、著者は語るのです。
この知見から、日本酒の好き嫌いについて考えてみましょう。私の大学時代のようにイッキブームで、先輩に無理矢理どんぶりで日本酒イッキを度々させられれば、「味覚嫌悪学習」を繰り返しているようなもので、日本酒嫌いになるのは当たり前です。そして、そんな私がどうやって日本酒好きになったのかといえば、きっかけはおいしい料理とばっちり合う日本酒を合わせて味わったとき、日本酒が料理をさらにおいしくしてくれるということに気づいたからです。さらに、仲間たちと楽しい雰囲気の中で酌み交わす日本酒のおいしさに目覚めたからです。若い方々が、もしこういう日本酒との出会いをしていれば、本来日本酒が好きになる可能性が高い人が嫌いなままでいるという、もったいない時間をなくすことができるのではないでしょうか。「酒道黒金流」は、そういう幸せな日本酒との出会いを、多くの方々に与えることができる機会を、様々な場面で創出していきたいと考えています。
【「味を感じる」の科学】
私たちが味をどのように感じているのか、かつては味物質が舌の表面から“しみ込む”と考えられていたようですが、現在では、味に関わる分子が、まず「味蕾」で“受信”されることが、味を感じるスタートと考えられているのだといいます。味蕾は、舌の先端を中心に広い範囲で存在する「耳茸(じじょう)乳頭」と、舌の奥に限定された範囲に存在する「有郭乳頭」や「葉状乳頭」に多数存在しているのだそう。さらに、舌以外にも、上あごの「軟口蓋(なんこうがい)」やのどの奥の「咽頭部」にも存在しているのだといいます。味蕾は、「味細胞」が縦に30〜70個集合したタマネギのような形をした細胞集合体で、その先端には小さな穴(味孔)が開いていて、ここだけが口の中の唾液と接触しているのだとか。味分子は、唾液に溶け込み、味蕾の先端から顔を出している味細胞に“触れる”ことによって、味細胞に化学的な変化が起こり、複雑な情報伝達を経て脳へと伝わっていくのだそうです。
次に著者は、基本味が5つ(甘味、苦味、酸味、塩味、うま味)である理由は、脳でそれらの味がしっかりと認知されるとともに、分子生物学の研究によってそれぞれの味覚受容体が発見されたという事実によるといいます。日本人が見つけたうま味が国際的に認められたのも、うま味を感じる受容体を人が持っていることが明らかになったことが大きいのだそうです。甘味、苦味、うま味の物質は、味細胞の細胞膜にある「Gタンパク質共役七回膜貫通型受容体」により受容され、酸味と塩味物質は味細胞膜上でイオンの流出入を行う「イオンチャネル」に作用するのだといいます。現在、口の中でカルシウムに反応する受容体や、脂肪酸に反応する受容体が見つかり、カルシウム味や脂肪味が6番目、7番目の基本味になる可能性が考えられているのだそう。これらが基本味になるかどうかは、神経回路や脳活動部位がほかの基本味とは異なることを示す必要などがあり、証明するのは決して容易ではないようですが。ちなみに辛味は、味蕾を介さず、味蕾の近くに存在する神経自由終末によって受容されるのだとか。辛味は、痛覚や温度感覚と同様であり、味覚神経とは異なる「三叉(さんさ)神経」を介して伝達されるため、味覚神経を介する味とは区別され、基本味の仲間には入っていないのだといいます。また、今から100年以上も前に「舌の味覚地図」が発表され、基本味の感受性が舌の位置によって異なるといわれていました。舌の先端は甘味、へりは塩味と酸味、のどの奥は苦味に敏感というものです。しかし、最近ではこの味覚地図は必ずしも正しくないという考えに変わり始めているのだそう。人間の感覚を用いて評価する官能検査によって、舌の先端は甘さに特別に敏感というわけでなく、甘味、塩味、酸味、苦味、うま味のすべてを敏感に感じることがわかったのだといいます。舌のへりも塩味や酸味だけでなく、すべての味に敏感であることがわかっているのだとか。さらに、舌の奥が、苦味に対して敏感なのはこれまでどおりですが、同時に酸味やうま味に対しても敏感という研究報告もあるのだそうです。日本酒を飲む際、甘味、酸味、苦味、うま味などが舌のどの部分で敏感に感じるのかを、意識して唎酒してみるのも面白いでしょう。
【「においを感じる」の科学】
続いてにおいについてですが、空気中を漂うにおいの分子は、鼻腔の粘膜内の「嗅上皮(きゅうじょうひ)」に存在する「嗅細胞」でとらえられ、その情報は嗅神経を伝わって脳に送られるのだといいます。嗅細胞の先端部にある嗅絨毛には、味蕾にある基本味の受容体と同じような、においの分子と結合する受容体が存在し、においの種類によって異なる受容体が反応するのだそうです。この後の、においの感知の仕組みについての本書の記述は、ちょっと分かりにくく、数字などが誤植の可能性も考えられますので、以下は別の資料(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻生物化学研究室「においの科学のウソ・ホント」)から抜粋させていただきましたので、その点はご了承ください。
鼻のなかの鼻腔空間の上部に、嗅上皮とよばれるにおいを感知する粘膜組織があり、嗅上皮には、嗅神経細胞というにおいを感知する神経が人間で約500万個ほどあります。においを感じるメカニズムは、いろいろな説がありましたが、1991年ににおい物質と結合するタンパク質を作り出す遺伝子が見つかり、におい分子の形が認識されるという立体構造説が正しいことがわかりました。そのタンパク質は、におい受容体あるいは嗅覚受容体と呼ばれています。そして、いろいろな生物の遺伝子の解読が進むと、におい受容体遺伝子はたくさんあり、私たち人間の染色体上には、約400種類のにおい受容体遺伝子が存在することがわかりました。人間の遺伝子の数は約2万ですので、その数%が嗅覚を動かす遺伝子であるのは、驚くべき割合といえるでしょう。400種類のにおい受容体タンパク質それぞれには、におい分子がはまる鍵穴のような部分があり、その形は400種類の受容体ですべて異なります。鍵であるにおい分子が受容体の鍵穴にはまると、受容体の形が変化して、その結果嗅神経細胞が興奮して電気信号となって脳に伝わります。ひとつひとつの嗅神経細胞には400種類のどれかひとつがでているので、嗅上皮にある500万個の嗅神経細胞は400個のタイプに色分けすることができます。におい分子が400種類のどの受容体に結合するか、その組み合わせ(パターン)はそれぞれのにおいで異なります。組み合わせがまったく違うとまったく違うにおいになり、似ていると似ているにおいになります。400種類の受容体があるので、理論的には、2の400乗の組み合わせがあるので、数十万とも言われるにおい物質は簡単に識別できるシステムだということです。五感のなかでも、視覚はRGB(赤、緑、青)と白黒の4種類の受容体で光と色を識別し、味覚は甘味、うま味、塩味、酸味が1種類ずつ、苦味が25種類の約30個の受容体で基本五味を感じています。それに対して嗅覚のセンサーが400種類というのは五感のなかでも圧倒的に数が多く、それがにおいのバラエティーさを生み出す分子基盤になっているのです。
(東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻生物化学研究室「においの科学のウソ・ホント<第二回>においはどのようにして感知・識別される?」より抜粋)
本書に戻り、次に著者は、嗅覚情報は味覚情報と異なり、嗅細胞から直接脳内に伝わり、その後もいくつもの段階を経ることなく脳の高次中枢に送られるため、扁桃体など、好き嫌いや記憶をつかさどる部位の近くに投射されることから、においは情動や記憶に関与しやすいのだといいます。また、嗅覚は五感の中でも突出して感度が高く、鋭く、記憶に残りやすい感覚であるのは、味覚や視覚などと違い、鼻の粘膜の受容体からのシグナルが脳にダイレクトに入るので、他の感覚に比べて“ノイズ”が入りにくいからではないかと語っています。この嗅覚の鋭さの理由には、野生動物が口の中にものを入れる前に、腐ったにおいなどを感知することで食べものの安全を判断し、身を守ることが背景にあるのだろうと語るのです。さらに著者は、においは、人の心理に働きかけ、行動を無意識に変える力を持っていると語っています。たとえば、ミントやコーヒーの香りは精神的なストレスを緩和させることが報告されていますが、このストレス緩和作用は、誰にでも起こるわけではなく、ミントやコーヒーの香りを正しく認識でき、それを快適と感じた人にのみ生じるのだそう。つまりこの効果は、香り分子の薬理的な作用ではなく、メンタル的なものであるというのです。
さて日本酒ですが、近年の日本酒は大変香りが高いものが多くなっています。日本酒の美味しさにとって、その100種類を超えるといわれる香り成分は、今後ますます重要になっていくでしょう。そして、コーヒーの香りを正しく認識でき、それを快適と感じた人にのみ、その香りがストレス緩和作用を生じさせるということは、日本酒でも同じことがいえるのではないでしょうか。「酒道黒金流」では、奥義のひとつとして「共感覚唎酒法」をお伝えしていますが、これは、日本酒の様々な香りを正しく認識し、それらを快適と感じるための訓練であるともいえるわけです。つまり、この訓練を積んでいけば、日本酒の香りからストレスを緩和させることができるようになるのだともいえるのではないかと考えています。
【味とにおいの相互作用】
続いて著者は、アメリカ合衆国の耳鼻咽喉科学の統計によると、「味がおかしい」と訴えて来院した患者は、多くが味覚ではなく、嗅覚に異常が見られたのだといいます。このような事例からわかるように、私たちが「味」といっているのは、味ではなく「におい」であるケースが非常に多くあるのだと語っています。そして、私たちがコーヒーを飲むとき、飲む前の“鼻から吸い込む香り”が「アロマ」、飲んだあとの喉から“鼻に抜ける香り”が「フレーバー」とされており、料理を食べたときの、主に味とにおい、すなわち味とフレーバーを合わせた総合的な感覚を「風味」と表現するのだといいます。料理中の風味には、味と同等もしくはそれ以上にフレーバーの貢献度が大きいにも関わらず、味が重要だと思ってしまうのはなぜかというと、その要因のひとつとして、「解剖学的な構造の重要性」が指摘されているのだとか。たとえばイルカは口内と鼻腔がつながっていないため、アロマしか感じることができませんが、ヒトは口の中から発散されたにおいを、喉の奥を通して鼻で感じることができる構造的な特徴を持っているため、味とにおいを同時に感じることができ、このことが味とにおいの区別をしにくくしているのではないかと考えられているのだそうです。
そして著者は、味とにおいという別々の情報が、風味として再構成される意義は、進化の過程での生存戦略だとも考えられているのだといいます。味の種類は5種類しかありませんが、数十万種類といわれるにおいの情報と組み合わせることで、食べる前により詳細に食べものを判断することができるからです。その結果、摂取できるもの、避けるべきものを選択するうえでの確実性が向上します。このように、動物の生存にとって味とにおいの相互作用は重要なのだと、著者は語るのです。また、カレーのスパイシーな香りを嗅げば、大抵の人はカレーの味が想像できるように、特定のにおいから味が連想されるというのは、嗅覚と味覚がシンクロしているということだと、著者は語っています。おいしい料理を生み出すうえでも、味は味覚、においは嗅覚と別々の感覚器からの刺激ですが、異なった感覚間でどのような相互作用が起こっているかを把握できれば、そのヒントが得られるかもしれないというのです。たとえば、キャラメルフレーバーティーは、キャラメルの甘いにおいによって、甘さが増したような感覚になり、甘味の満足感を得つつ糖分を減らすことができるのだとか。また、減塩醤油に、醤油のにおいを添加することで、塩味に対する不足感を和らげる商品なども開発されており、これは、醤油のにおいが塩味を補強したと考えられるというのです。食品の風味には、いろいろな感覚が関与していますが、味覚と嗅覚だけを取り上げても、そこには多くの味分子とにおい分子が関わっており、さらにこれらの組み合わせによる膨大な相互作用が、料理の中で繰り広げられているのだといいます。著者は、味とにおいの相互作用が食文化をつくったのだといえるのではないかと語るのです。
日本酒においても、味とにおいの相互作用は極めて重要です。たとえば、日本酒の辛口というのは、実際に辛い味があるわけではなく、人間が甘いと感じる糖分(グルコース=ブドウ糖)が少ないという意味なのですが、吟醸酒などのフルーティな甘い香りを持つ日本酒は、味が辛口であっても、多くの方々が甘口の日本酒であると感じてしまうことが少なくありません。つまり、キャラメルフレーバーティーと同様に、日本酒においても、フルーティで甘い香りを持つものは、その香りのために甘さが増したような感覚になり、実際は糖分の少ない辛口であっても、甘味の満足感を得ることができるのだといえるでしょう。日本酒の世界に吟醸酒が登場し、その後バブル期に「吟醸酒ブーム」が起こったとき、日本酒業界にとって吟醸酒は「百年に一度のイノベーション」であるといわれました。「吟醸」という言葉が生まれたのは、明治40(1907)年頃といわれていますが、実際に現在の「吟醸造り」に近い、精米歩合55〜60%程度に磨けるようになったのは、昭和5(1930)年頃だといわれています。つまり、吟醸酒が誕生してから、間もなく百年になるということなのです。近未来において、次の「百年に一度のイノベーション」といわれるような、吟醸酒を超えた、新時代を切り拓く日本酒が誕生するためのヒントは、この「味とにおいの相互作用」の中にあるのかもしれません。「酒道黒金流」においても、この「味とにおいの相互作用」を大きなテーマとして位置づけ、今後も探求していきたいと考えています。
【「テクスチャーを感じる」の科学】
料理のおいしさには、舌や鼻で感じる風味だけではなく、歯ごたえ、口あたり、舌ざわり、のどごしなどの物理的な「触覚」が大きく影響しますが、このような、食べものを口に入れ、咀嚼し、飲み込むまでの唇・歯・舌・口蓋・のどなどで感じるさまざまな物理的な感覚は、「テクスチャー」と呼ばれているのだといいます。「テクスチャー」の定義は、いろいろ提唱されていますが、1962年にアメリカのゼネラルフーズ社に勤めていたツェスニャク氏は、「テクスチャーとは、食品の構造的要素(分子レベル、微視的および巨視的なレベルの構造)と生理感覚的に感じとられる様子の両者を含有したものである」としているのだそう。つまり、料理を食べたとき、人間が口の中で感じられる物理的感覚「食感」と食べものが持っている物理的な性質「物性」を合わせたものであり、式で表すなら「テクスチャー」=「食感」+「物性」と表現されるのだというのです。
料理の中に存在する、舌で感じる味覚分子や鼻で感じる香りの嗅覚分子が形成しているのが「化学的なおいしさ」であるとすると、テクスチャーは料理の物性を反映する「物理的なおいしさ」であるといえると著者は語っています。そして、化学的なおいしさと物理的なおいしさは、食べものの種類によってそれぞれの貢献度が変わってくるのだそう。クッキーなどの固形の食品ではテクスチャーの影響力が強く、ジュースなどの液体の食品では風味の影響が強いとされているのだとか。さらに、風味成分である味やにおい分子が食品のテクスチャーを変えることは少ないですが、テクスチャー分子は食品中の味やにおい分子の口の中での拡散速度を変えるため、間接的に風味の強弱を変化させるのだといいます。たとえば、あずきからつくられる固体の「あん」の糖度は約60%と高いですが、液体の「おしるこ」で同じ糖度にすると甘すぎると感じるため、「おしるこ」の糖度は「あん」と比べて低く抑えられているのだそう。また、一般的に食品がかたくなると、風味の強さが弱められる傾向があるといいます。味や香りのする成分が、それらと結合する受容器へと到達しにくくなるためなのだとか。固形の食品は、液体の食品よりも口の中にとどまる時間が長く、その間にテクスチャーは刻一刻と変化するため、料理のおいしさに果たす物理的な役割は、風味よりも大きいと考えられているのだと、著者は語っています。
次に、テクスチャーの特性ですが、力学的特性(かたさ、凝集性、粘性、弾性、付着性)と幾何学的特性(粒子の大きさと形、粒子の形と方向性)、その他(水分含量、脂肪含量)に分類されているのだそうです。たとえば、さぬきうどんは、かたさ、弾力性、歯切れなどの力学的特性が独特の強いコシに影響しており、またうどんの麺の表面のつるつるっとした食感も、のどごしの滑らかさに関係しているのだといいます。次に、そんなテクスチャーの感知のしくみですが、まずテクスチャー感覚は、皮膚表面で感じる触覚(または圧覚)と深部感覚に大別されるのだそう。味覚は舌などの一部でしか感じない感覚なのに対し、触覚は口腔内のみならず、皮膚の表面などでも感じることのできる感覚であり、一般に味覚のように体の特定部位にしか受容体機構を持たない感覚を「特殊感覚」、触覚のように体の表面ならどこでも感じることができる感覚を「体性感覚」と呼ぶのだそうです。口の中で感じられた体性感覚の情報は、下顎では「三叉神経感覚核」、舌では「舌下神経核」、頬や唇では顔の「顔面神経核」を経て視床に達し、大脳皮質の「第一次体性感覚野」に投射されるのだといいます。この第一次体性感覚野は、テクスチャーに関係する位置、大きさ、形の識別に関わっているのだとか。体性感覚野は、前頭連合野で味覚、嗅覚、視覚といった別の感覚情報と統合され、記憶された情報と照合されるのだというのです。
日本酒は液体の食品であるため、そのおいしさにとっては風味の影響が強いといえ、テクスチャーはあまり影響を及ぼさないといえますが、ただし「にごり酒」や「スパークリング日本酒」や「長期熟成古酒」などは、テクスチャーの影響も強いといえるでしょう。「にごり酒」は、その独特のトロットロの食感と、口の中に長くとどまることなどから、そのおいしさにテクスチャーが大きく影響を与えていますし、「スパークリング日本酒」は、口中でピチピチと弾ける食感と炭酸ガスののどごしの爽やかさなどのテクスチャーが、そのおいしさに大きく影響を与えています。また「長期熟成古酒」の中には、熟成によってトロッとした粘性を持つものもあるため、そのおいしさにテクスチャーが影響を与えるものもあるのだといえるでしょう。
【「温度を感じる」の科学】
そして著者は、料理の「温度」も、おいしさを決める大きな因子だと語っています。冷えたアイスクリームはおいしいのに、溶けたアイスクリームは甘ったるく感じられ、温かい味噌汁は、冷めると塩味がきつく感じるのだそう。アイスクリームの例のように、温度によって甘さが変わる理由は、甘さの味覚を感じる味細胞の受容体は、体温付近の温度でもっとも感受性が高いのに対して、塩味や酸味などのイオンチャネルは温度の変化を受けにくいという性質があるからだといいます。アイスクリームに入れる砂糖の量が驚くほど多いのは、冷たいアイスクリームを舌に乗せると、その温度によって甘味受容体から発信される情報が抑えられるためなのだとか。また、温かい味噌汁でちょうどいいうま味成分は、その温度が下がっていくとだんだん弱まってしまうのに対して、塩味は温度によってあまり変わらないため、冷たい味噌汁は塩味だけが際立つようになるのだそうです。さらに、温度は食べものや飲みものの香りの「立ち方」に影響を与えるのだといいます。一般的に食べものの温度が上がれば香りが立ち上がり、嗅覚器で感じることになるのだそう。温かい汁物からは気体の香気分子が大量に発散しており、スープなどをスプーンを使って飲むよりも、味噌汁をお椀から直接飲むほうが、より多く香気成分を取り込めるのだそうです。
また著者は、温度感覚は、味覚と異なり、体の表面ならどこでも感じることのできる体性感覚であるため、味細胞のような特別な細胞を必要としないのだと語っています。温度刺激は、皮下にある神経の末端に直接作用することで引き起こされると考えられているのだそう。温度変化に劇的に応答する神経繊維には、40〜45℃でもっともよく反応する「温線維」と、25〜30℃でもっともよく反応する「冷線維」が存在し、うまく役割分担がなされているのだというのです。これらの神経は、30〜40℃の体温近くの温度にはほとんど反応しないため、私たちは通常、体温付近の温度には熱いとも冷たいとも感じないのだそうです。
この「温度を感じる」の科学の知見は、日本酒のおいしさにとって大変役立ちます。甘味は体温付近の温度でもっとも感受性が高くなり、うま味は温度が下がると弱まるということは、ぬる燗(40℃前後)や人肌燗(35℃前後)にすれば、辛口の日本酒であっても甘味を強く感じ、うま味も強く感じられるということを意味しています。つまり、日本酒の飲用温度を変えるだけで、甘辛やうま味の強弱などをコントロールし、好みの味わいに微調整することができるということなのです。ちなみに、吟醸酒などのカプロン酸エチルの香り(リンゴ様の香り)は、燗酒にするとせっかくの華やかな香りが揮発してしまうため、通常は燗酒には向かないといわれているのです。ただし、吟醸酒でも酢酸イソアミルの香り(バナナ様の香り)は、温度が低いとあまり感じられないため、このタイプの吟醸酒は、「常温」や「ぬる燗」などの温度で楽しむほうがよりおいしく感じられるといえるでしょう。