【門前編】「ウェルビーイング」と日本文化、そして酒道 今回は、近年あちこちでよく聞かれる、「ウェルビーイング」について、変わった視点からアプローチしているユニークな書籍、「むかしむかしあるところにウェルビーイングがありました」~日本文化から読み解く幸せのカタチ~<石川善樹(予防医学研究者)×吉田尚記(ニッポン放送アナウンサー)著 株式会社KADOKAWA 2022年1月28日発行 1,300円+税>という書籍を参考に、まずは「ウェルビーイング」について、そして「日本文化から見たウェルビーイング」について、皆さんとシェアさせていただきたいと思います。さらに、「ウェルビーイング」と「酒道」についても、言及させていただきたいと思っています。 【ウェルビーイングとは?】 まず、著者の石川善樹氏は本書の「はじめに」にて、ウェルビーイングや幸せのかたちは、本来、一人ひとりでそれぞれに異なるものであると語っています。たとえば、健康で長生きする喫煙者もいるのですから、あるやり方が合う人もいれば、合わない人もいるというのがウェルビーイングの前提であり、ややこしさであるというのです。そして、もう一人の著者である吉田尚記氏は、ウェルビーイングを日本語で表すなら、「イキイキ」がしっくりくると表現しています。自分が自然とイキイキできる時間は何をしているときだろう……そのスタートラインから一緒に、善く(ウェル)いられる(ビーイング)人生について考えていきましょうと語るのです。 また石川氏は、実は人間は起きている時間のほとんどを、「今日のお昼はどうしよう?」とか、いま目の前にある瞬間ではなく、これから起きる未来のことに頭を働かせる時間のほうが、圧倒的に長いのだと語っています。未来のことを考えながらワクワクする、ここに人間の本質を考えるときのヒントがあるというのです。そして、つい最近まで、心理学の世界では「未来」は盲点だったといいます。トラウマ、原体験、モチベーションを上げる、集中力を発揮する方法など、「過去」と「今」の心の動きについては盛んに研究が行われていましたが、「人の心はどのように未来を考えているか」といった領域については、さほど研究されていなかったのだというのです。未来にワクワクする気持ちは、「何が起きるかわからない」という不確実性への期待、ときめきだといいます。象徴的な例として、オリンピックで金メダルを取った選手よりも、銀メダルを取った選手のほうが実はその後の人生で成功しやすい、高収入を得ていたという研究結果が出ているのだそう。なぜそうなるのかというと、金メダルを獲得することによって、人生の「予測不可能性」が下がってしまうからだと考えられるのだとか。人生の早い段階で絶頂期を迎えると、その先の予測不可能性が低下する側面があるのだというのです。脳は予測不可能な未来を欲する。だから、人間は何が起きるかわからないワクワク感を好む。これは、脳科学の世界ではすでに明らかになっている事実だといいます。ところが脳は、「予測不可能な未来を好む」と同時に、「サプライズが大嫌い」でもあるというのです。未来にワクワクが期待できないと耐えられない一方で、サプライズが大きすぎても負荷がかかって脳の処理が追いつかず、これまた耐えられないのだと。刺激がなさすぎるのは嫌、でも刺激がありすぎるのも嫌、というバランスの複雑さが、人間の脳の特徴なのだというのです。また石川氏は、最新のウェルビーイング研究に関する知見をシンプルな言葉でまとめると、次の2要素が「効く」ことがわかっているのだといいます。それは、「選択肢がある」と「自己決定できる」の2つだと。つまり、「どう生きるかの選択肢があり、その中から自己決定できる」ということが、ウェルビーイングに生きるポイントになるのだというのです。 【日本的ウェルビーイングとは?】 石川氏は、2021年、日本政府が毎年6月に打ち出す「成長戦略実行計画」において、「国民がWell-beingを実感できる社会の実現」という文脈でウェルビーイングという言葉が登場したと語り、2021年は日本におけるウェルビーイング元年といえるでしょうと語っています。そして現在では、ウェルビーイングはひとまず次のような理解をされているのだとか。「ウェルビーイングとは人生全体に対する主観的な評価である『満足』と、日々の体験に基づく『幸福』の2項目によって測定できる」。つまりシンプルに圧縮するならば、「満足」と「幸福」の2つが揃えばおおむねウェルビーイングであろうと考えられているのだそうです。しかし、何に満足や幸福を感じるかは、時代や文化によって大きく異なると石川氏は語ります。生まれ育った文化圏によって刷り込まれる価値観も異なるとすると、ウェルビーイングのかたちも東洋文化圏と西洋文化圏では違ってくるのが自然でしょうと。そして、西洋主義的なものさしで測った「満足」や「幸福」の条件では、東洋文化圏に属する日本人のウェルビーイングを捉えきれない部分があるはずだ、と石川氏は考えているというのです。 「酒道 黒金流」の目指すところも、ある意味「日本的ウェルビーイング」であるといえるでしょう。日本酒と、日本酒の周囲にあるモノやコトを活用することで、イキイキしながら、ワクワクしながら、刺激を得ながら、善くいられる人生を、自分ならではの満足のかたちと幸福のかたちを追求し、それを自分で選び自分で決めるという道が「酒道」であると言い換えることもできるのです。 【「むかしむかし」から日本的ウェルビーイングを考える】 「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」という、日本人なら誰もが聞き覚えのある有名なフレーズを挙げ、石川氏は次のように語っています。西洋の昔話は、多くの場合子どもが主人公で、冒険して宝物を見つけるなどといった、立身出世の展開が多いのに対し、日本の昔話はおじいさんとおばあさんがやたらと登場し、かつハッピーエンドも少なく、物語のスタートとゴールにほぼ変化がない話も少なくないのだといいます。もう1人の著者の吉田氏も、落語も同様であると語っています。そして石川氏は、西洋のようにマイナスからゼロ、ゼロからプラスへと上を目指すのではなく、ゼロに戻ることに日本人は価値を見出してきたことが窺えるというのです。さらにもう一歩踏み込んで解釈すると、日本的ウェルビーイングの原型は「ゼロに戻る」にあると考えられ、それが日本人にとっては長らく「幸せ」のかたちだったのではないでしょうかと、石川氏は語るのです。 そして、昔話と落語を筆頭に、日本の文化には「2つのN」を愛でるという共通点があると、石川氏は語っています。ひとつめは「Nobody」で、昔話のおじいさんやおばあさん、落語の熊さん八っつぁんは「誰でもない」市井の人なのだといいます。もうひとつは「Negative」で、日本語にはネガティブともいえる状態を愛でる言葉がずば抜けて多いのだというのです。その象徴が「わびさび」で、枯れかけの花に美を見出すような文化が、日本文化の特徴なのだと語るのです。「お~いお茶」に掲載されている俳句にも、否定を受容する俳句が多いのだといいます。たとえば、「プロポーズされそうなほど冬銀河」(第25回伊藤園お~いお茶新俳句大賞文部科学大臣賞)という俳句の、何も起きてなさ加減に結構感動してしまったと、石川氏は語っています。さらに石川氏は、ネガティブや匿名性を愛でて、否定を受容してきた日本文化から生まれたもののひとつに「謙遜」があるといいます。日本人は、評価されても「いえ、私なんてまだまだです」と反射的に自己否定せずにはいられず、それに対して相手が「いやいや、そんなことないよ」とさらに否定を重ねてきて、否定を否定されて初めて自己肯定ができる、というややこしい構造になっているのだというのです。 【日本文化のルーツ「和歌」の「連」と「号」】 さらに石川氏は、日本的ウェルビーイングの原型を探るためには、日本文化のルーツがヒントになるはずだと考え、その仮定に立って日本の文化を遡った結果として、「和歌」にたどり着いたのだといいます。そして、日本文化のルーツといえるのは、平安時代に生まれた「古今和歌集」だと考えると語っています。その序文には、「和歌は日本人の心の動きを自然に記したもので、心が動けば日本人は自然と歌を詠む民族なのだ。神様もご機嫌になり、喧嘩する男女を仲直りさせ、猛り狂う武士の心をも鎮めるのが歌の力だ!」という意味が書かれており、これは紀貫之による「日本には文化がある」という、世界への強烈な宣言だと解釈したと、石川氏は語るのです。この和歌が広がっていくと同時に、歌を詠み合う集まりも自然に増えていきますが、この集まりは「連」と呼ばれ、皆で集まって声に出して詠み合うサロンのような集まりが、あちこちに生まれたのだといいます。一方で、「連」に参加するときには条件があり、それは「号」という別の名前を持って入ることなのだとか。これはペンネームやネット上のハンドルネームに近いもので、江戸時代の人々は生涯に複数個の「号」を持ち、いくつもの「連」を渡り歩いて人生を楽しんでいたのだそうです。 別の名前、別のキャラを見せる別の場所があっていいという、この大らかで寛容な「号」と「連」の文化は、江戸時代に盛り上がり、明治初期まで続いたのだとか。このカルチャーから見えてくることは、当時の人々は他者に「人格の首尾一貫性」を求めなかったという点だと、石川氏は語っています。仕事とプライベートで違う顔を持つのは当時は当然のことであり、そこに首尾一貫性を求める人はいなかったのだというのです。ところが今は、「別の顔」を持つことが一歩間違えれば非難の対象となってしまいます。真面目に仕事をする人は、プライベートでも清廉潔白であることが求められるようになってしまいました。しかし本来、実務能力とプライベートのあり方は別問題だと石川氏は語ります。会社の外に出た後であれば、どんな趣味を持とうがそれはそれ、これはこれという話であり、他人に糾弾される筋合いなどないはずだと。ところが、そういう「号」を持ち、「連」に参加するようなことが許されなくなりつつある……これは端的にいって、すごく生きづらい状況、息苦しい社会であると、石川氏は語っています。自分の強みや長所を伸ばして周囲と繋がり楽しく生きよう、という「ポジティブ心理学」が大流行した後に来たのは、まるで対局にあるような東洋哲学のブームだったといいます。こうした振り幅はなぜ生じたのかというと、ポジティブで人格すべての面で完璧であるべきというプレッシャーに疲れた若者たちが、「首尾一貫なんて幻想だ。だめな自分も真面目な自分も矛盾なく同居していいんだ。」という東洋哲学に癒しを求めたからだと指摘されているのだそうです。 そして「酒道 黒金流」も、まさにこの「連」であるといえます。「酒道 黒金流」のホームページのトップには、「日本酒を媒介とした『もうひとつの道』」と表現されています。この生きづらく息苦しい現代社会において、日本酒を媒介として、自分の本当に好きなことをしながら、人生が彩り豊かで愉しくなっていく中で、生きづらさや息苦しさから解放されるという「もうひとつの道」が、「酒道黒金流」なのです。そして今後は、入門者の皆さんに「号」を持っていただこうかとも考えています。美味しく愉しく酌み交わしながら、自分や仲間にぴったりのユニークな「号」を考えるという飲み会のことを考えるだけでも、何だかワクワクしてきませんか? 【「奥」の思想と「からっぽ」の存在価値】 いろんな「号」を使い分け、それぞれに応じた「連」がある方が生きやすいという状態は、「表」と「裏」の顔を使い分けると表現することもできると石川氏は語り、こうした発想の角度から考えるともうひとつ、日本の文化には「口」と「奥」をとても大事にしてきた歴史があると語っています。「口」は入り口の口であり、物事の入り口や出発点を指し、「奥」とは入り口から入ったずっと先にある、大事なものを隠しておく場で、「奥」には価値があるものが潜んでいるのだといいます。けれどもそこには決して到達できないようにもなっており、表のすぐ裏にある「裏」ではなく、「口」から入ってうねうねと曲がった先のどこかにあるはずの「奥」という点がポイントだというのです。そして、この「口」と「奥」という思想もまた、日本のあらゆるところで脈々と受け継がれてきた精神性であると、石川氏は語るのです。西洋的思考における大事なものは、分かりやすく「上」であり、高みを目指し、上層に行くほど意思決定ができるようになるという、このような「上」の思想が西洋の文化圏では圧倒的に好まれてきたのだといいます。うねうねと曲がりくねった奥へと誘う日本と、直線的に上昇していく西洋の思考は、正反対に位置するといっても過言ではないと、石川氏は語っています。さらに、「奥」という思想は「中心がない」という見方もできるのだというのです。真ん中もなければ上もない。では一体、中には何があるのか?そのあたりを、日本最古の歴史書「古事記」から読み解いていきましょうと、石川氏は語るのです。 石川氏は、「古事記」の日本神話には個性的な神々が多く登場しますが、善と悪の対立軸はなく、善であるかのように見えた神が、シチュエーションによっては悪の側にまわることもあるという具合に、キャラクターの属性があまり定まっていないのだといいます。このように関係性によって変わっていく神様というのは、世界的に見ても珍しい部類に入るでしょうと語っています。そしてもうひとつ、「古事記」の神々がユニークなのは「いてもいなくてもいいような神様がなぜかいる」という点であるというのです。たとえば、「三貴神」と呼ばれるアマテラス、ツクヨミ、スサノオのきょうだいでも、アマテラスとスサノオの間では激しいドラマが展開していくのですが、ツクヨミだけほぼ何もしないのだといい、つまり「3人組のうち1人はただいるだけ」というパターンが繰り返されているのだといいます。このような神様は、一見すると無為な存在にしか感じられませんが、見方を変えると「ただいるだけで価値がある存在」ともいえるのだというのです。集団の中に「からっぽ」の存在がいる。理由は分からないが、いるだけで何らかの価値があるらしい。実はここが重要なのだとか。心理学者の河合隼雄氏は、3人のうち1人がからっぽの存在感しかないこの状態を、「中空構造」という言葉で表しているのだといいます。河合氏は、「中空構造日本の深層」という著書で、日本神話の中心は「からっぽ」であると述べているのだそうです。中心に置かれているのはからっぽの神であり、その周りに他の二神が配置されてバランスを保っているというのは、日本神話における独特の構造であり、おそらく日本人の精神性にも無意識下で受け継がれているのではないかと、河合氏は解釈しているのだというのです。そして石川氏は、その説に立った上で、からっぽのさらに「奥」に、何かがあるのはないかと感じているのだと語るのです。大事なものは「奥」にある。奥に何があるのかまでは分からないが、目を凝らしてそれを探していく。やや抽象的な言い回しになってしまいますが、こうした人生への姿勢こそが日本的なウェルビーイングの根底にあるのではないかと、石川氏は考えているのだといいます。否定に否定を重ねていく謙遜のプロトコル(儀式)も、もしかすると「奥」にある何かを探り当てようとする技法の一種かもしれないというのです。一方で、「からっぽ」や「奥」といった概念は、日本においてずっと重要であったにも関わらず、キチンと言語化されてこなかったエリアでもあるのだといいます。石に生えた苔に情緒を見出す心は、「わびさび」という言葉があって初めて生まれるものなのだと。同じように、「奥」という感覚を心の片隅に置きながら、何をしている時であれば自分の心が善い状態にあるかを見定めていくということが、自分にとっての幸せやウェルビーイングのかたちを探し、育てていくことになるはずだと、石川氏は語るのです。 日本文化の「茶道」や「華道」などの「道」においても、「奥義」という言葉が存在しており、「酒道黒金流」でも「奥義」のひとつとして「共感覚唎酒法」を紹介していますが、その「道」は、「上」を目指すのではなく、やはり「奥」を目指すのです。そして、「上」を目指す「道」はある意味で単純な一本道ですが、「奥」を目指す「道」には様々な「道」が存在しています。「酒道黒金流」においても、日本酒そのものの探究の道もあれば、歴史や文化や風土からの探究の道もあれば、「禅」や「神話」からの探究の道もあれば、作法とあり方からの探究の道もあれば、和食や日本料理の分野からの探究の道もあれば、「共感覚唎酒法」による探究の道もあれば、科学的な探究の道もある……という具合に、これまでのコンテンツをご覧いただければ、ご理解いただけることでしょう。そして、その「道」の奥の奥には何があるのかというと、実は開祖を名乗っている私にも分かりませんから、本当はからっぽなのかもしれません。しかし、からっぽのさらに「奥」に、極めて大切な何かがあるということだけは、感覚として感じ取っているのです。 【ウェルビーイングの宝庫「まんが日本昔話」】 常にゼロに戻りたがり、「上」よりも「奥」を好ましく思う。「奥」には大事な何かがあると知っている。役に立たないようで集団を成り立たせている「からっぽ」の存在がある。いまだキチンと言語化されていないこうした領域にこそ、日本的ウェルビーイングの原型が隠れているのではないかという仮説を、研究を進めていく中で立てた石川氏は、絶好の素材にめぐり逢ったのだといいます。それが「まんが日本昔話」なのだと。その研究でまず気づいたのは、「誰もが知っているあの人」ではなく、「誰も知らない隣の人」=Nobodyの話を日本人はずっと語り継いできたということが、はっきりと浮かび上がってきたのだといいます。次に気づいたのは、主人公が成長しないことなのだとか。多くの登場人物は成長も変化もせず、欲深いおじいさんは欲深いままで終わる話も多いため、救いがない悲惨な話も多数あるのだというのです。これらの物語には、他人に変化を期待しない、良い悪いで相手をジャッジしない、市井の人々の姿が描かれている点が共通しているといいます。欲深でも酒飲みでもモノグサでも、その人の丸ごとを肯定する。成長も変化もしないということは、弱さや嫌な部分をあるがままに肯定するということでもあると、石川氏は語っています。 さらに石川氏は、「まんが日本昔話」のエンディングテーマ、「にんげんっていいな」を取り上げています。あの歌は、実は動物たちの目線から見た人間たちを描いたものですが、動物たちはどこを見て「にんげんっていいな」と思っているのかというと、「ごはん」や「お風呂」、「布団で眠る」ことをいいなと羨んでいるのだというのです。ごはん、お風呂、布団というシンプルな3要素は、日本人にとっての「ゼロ」ともいえるウェルビーイングの原型といってもいいのかもしれませんと、石川氏は語っています。しかし、それだけで生きていけるほど、今の時代は単純ではありません。それでもあえてこの原則に立ち戻ったのは、「夢や目標を持ち、志をもっと高く!」という上昇志向の発想自体が、すでにある種のバイアスがかかった考え方であると気づくきっかけにもなるからだと石川氏はいいます。前や上ばかり見ているとすぐ目の前、今日一日のことを人間はおろそかにしてしまいがちです。やりたいことが見えなくてもいい。今日という日を味わって過ごし、いつでもゼロに立ち戻ってける自分を積み重ねていく日々にも、十分に価値があるということを心に留めておくとよいのではないでしょうかと、石川氏は語るのです。 確かに、病気や怪我などで思いもかけず入院したりした時、実は何気ない日常が、何てことない日々が、我が家での「ごはん」「お風呂」「布団」という当たり前のことが、いかに幸せなことだったかと気づいたりします。ならば、病気や怪我にならずともこのことに気づいている人というのは、とても幸せな人であり、ウェルビーイングな人生を送っていると考えられるのではないでしょうか。「酒道黒金流」においても、何気ない日常、何てことない日々を、最も大切なものであると考えています。そして、そんな何気ない日常に、何てことない日々に、日本酒を媒介として、ほんの少しでも彩りを添えることで、それによって何気ない日常の幸せに気づく人が増えるならば、何と素晴らしいことだろうと考えているのです。 【好きな存在を「推す」という幸福な信仰】 アイドルや俳優、アニメやゲームのキャラクター、チームなど、好きな存在を「推す」という行為もまた、人生に多大なウェルビーイングをもたらしてくれると、石川氏は語っています。子どもがどうやって友達を作っていくかというと、まずは「いる」が出発点になるのだといいます。学校や公園で、ただ一緒に「いる」時間があって、そこから自然と繋がりができていくのだと。一緒に「いる」から、友達に「なる」。そして友達になった後は、一緒に何かを「する」こと、たとえば一緒の部活に入るとか、そういった行動を求めるようになるのだというのです。いる(being)、なる(becoming)、する(doing)。この順番が、子ども時代にはごく自然な流れとして成立するのだといいます。ところが、大人になると出発点が「する」に変わります。就職することで一緒に仕事を「する」関係になり、次第に同僚に「なる」。公私を超えて一緒に「いる」関係になれる場合は、ごくまれであると語っています。「一緒にいたい」から始まった恋愛でも、結婚して生活を共にし、子どもが生まれて親になると、ただ「いる」だけでは価値が減ってしまうのだといいます。だからこそ、人間は大人になるほどにただ「いる」が許される場、「いる」だけで価値があるような存在を切実に求めてしまうのかもしれないと、石川氏は語るのです。一方で、「いる」から始まった関係性やチームは、「する」が上手ではなくても許されるという寛容さがあるのだといいます。技術や能力、経済性よりも、その人自身がそのまま受け入れられている。「する」よりも、「いる」を優先することが許されるのだというのです。好きな存在を「推す」気持ちも、これに近いものがあるのではないかと、石川氏は語っています。アイドルなどの「推し」がいる人はたいてい「(相手と)恋愛したいわけでも、どうこうなりたいわけでもない」と言うのだそうです。「なる」も「する」も相手には求めない。ただ、いてほしいのだと。そして、この「推す」ときの心の動きに最も近いのは、「信仰」でしょうと石川氏は語っています。熱烈な「推し」がいる人がその対象を思うときの感情は、神様を信仰するときの一方通行な心持ちとほぼ同じといえるのだと。恋愛は相互の関係性によって成り立つため、すぐ壊れてしまう脆さが常にありますが、「推す」ことは一方的な信仰ですから、相手に裏切られることは絶対にないのだというのです。「推し」がどれだけ不祥事を起こそうとも、「でも自分は信じている」と言えるのは、その人が何をしようが「いる」だけでいいからなのだと。そう考えると、「推す」というあり方は今の時代に最適化されたウェルビーイングのひとつのかたちである、と考えることもできるはずだと石川氏は語るのです。 努力をすれば報われる。努力は必ず実を結び、幸せな人生を約束してくれる。かつて私たちはそれが正しいことだと教わってきました。けれども近年、アメリカを中心に他人を能力でジャッジすることへの批判が出始めているのだと、石川氏は語っています。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授も、著書「実力も運のうち能力主義は正義か?」(早川書房)で能力主義に疑問を投げかけているのだそうです。そして、有能か無能かというものさしで他者をジャッジする風潮が行き過ぎると、社会に分断が生み出されるのだと。同時に、この路線を突き進むほどに、ウェルビーイングが遠ざかっていくことも間違いありませんというのです。愚かな行為をした人をさげすみ、疎み、排除することで、一時的な安堵を得る人も多いかもしれませんが、けれどもその先には殺伐とした世界しかありませんと、石川氏は語っています。さらに石川氏は、この説を体現しているユニークな国内企業があるとして、家電量販店の「ケーズデンキ」を紹介しています。この企業は、競争激化が続く業界にありながら、「がんばらない経営」という方針を打ち出し、残業なし、ノルマなし、無理をしないのだというのです。こうした戦略によってどんな変化が起きたのかというと、販売員がのびのびと丁寧に、本音で接客できるようになったのだといいます。ノルマがないから焦らなくていい。商品のいいところも悪いところもフラットに本音でお客さんに伝えられる。この方針が大当たりし、丁寧な接客によって高額商品の売り上げが伸び、コロナ禍にも関わらず2021年3月期の連結決算は過去最高益を記録しているのだとか。ではこのまま右肩上がりを目指すかというと、その方向へは行かないのだそう。なぜなら「がんばらない」ことを継続するからだ、と同社は宣言しているのだというのです。そして石川氏は、愚者を見下し、他人を出し抜き、パイを奪い合うという、そんな競争社会を勝ち抜いた先に、ウェルビーイングや幸せが待っていないことに私たちはもう薄々気づいているはずだと語っています。 「酒道 黒金流」も、入門者の皆さんがただ「いる」ことだけでいい場となり、そこに「ある」だけで価値があるような存在、つまり皆さんから「推される存在」になれるよう、がんばるのではなく、常に意識していたいと考えています。