【門前編】スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.1>

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【門前編】スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.1> 今回から何回かにわたって、17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げたいと思います。難解なことで有名なスピノザですが、ベースとさせていただくのは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ~自由へのエチカ~」(國分功一郎 著 講談社現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)という読みやすい新書本です。ちなみに本書の内容は、NHK「100分de名著」にて取り上げられた、「スピノザ エチカ~『自由』に生きるとは何か~」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものだとのこと。ですから、大変分かりやすく、かつメチャクチャ面白い書籍ですので、是非ご一読を強くお薦めします。本書のオビには、「次々と覆される常識の先に、ありえたかもしれないもうひとつの世界が浮かび上がる。」と書かれているとおり、きっと目からウロコが落ちまくることでしょう。そして、スピノザは精神と身体の関係について徹底して考えた哲学者であり、現代の脳神経科学や医学からも、スピノザの主張の正しさが証明されつつあるというのです。たとえば、世界的にその名を知られている脳科学者の奇才アントニオ・R・ダマシオは、著書である「感じる脳~情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ~」(アントニオ・R・ダマシオ 著 田中三彦 訳 ダイヤモンド社 2005年11月10日発行 2,800円+税)の中で、次のように書いています。「スピノザは、科学者としての私がもっとも心を奪われている問題—情動と感情の本質、そして心と身体の関係—を取り扱った。過去の他の多くの思想家がそれと同じ問題に心を奪われてきた。しかし私の目には、これらいくつかの問題に関して今日研究者たちが提示しつつある答えを、スピノザはすでに予示していたように映る。それは驚くべきことだった。」と。そしてその内容は、これからの時代、新時代にこそ必要とされるものであると、強く感じています。さらにその内容は、日本酒に対しても酒道に対しても、極めて重要な示唆を与えてくれるのです。 【なぜ、いま「スピノザ エチカ」なのか?】 まず本書の「はじめに」にて著者は、スピノザ(1632~1677)は17世紀オランダの哲学者であると紹介し、代表的な著書である「エチカ」とは、倫理学という意味だと語っています。そして、300年以上も前の哲学者の本を、なぜいま読む必要があるのかについて、以下のとおり語るのです。スピノザが生きていた17世紀という時代は、歴史上の大きな転換点であり、たとえば、いま私たちが知っているタイプの国家は、この時期に誕生しているのだといいます。この国家形態は「主権」という言葉で特徴づけられますが、私たちが「国民主権」という表現を通じて慣れ親しんでいるこの考え方がヨーロッパで始まるのも17世紀だというのです。さらに学問に目を向ければ、デカルトが近代哲学を、ニュートンが近代科学を打ち立てるのもこの時期なのだとか。つまり、現代へとつながる制度や学問がおよそ出揃い、ある一定の方向性が選択されたのが17世紀なのだと、著者は語っています。そして、スピノザはそのように転換点となった世紀を生きた哲学者ですが、他の哲学者たちと少し違っており、彼は近代哲学の成果を充分に吸収しつつも、その後近代が向かっていった方向とは別の方向を向きながら思索していたと語るのです。それを著者は、やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学である、ということができるのだといいます。そのようにとらえる時、スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考え方も充分にありうることを知る大きなきっかけとなるはずだというのです。たとえば人間の「自由」についてのスピノザの考え方は、私たちが囚われている常識を覆すものなのだと。現代では、「自由」という言葉は「新自由主義」のような仕方でしか使われなくなってしまいましたが、この経済体制が強いる過酷な自己責任論は、多くの人に生きづらさを感じさせていると語り、「自由」の全く新しい概念を教えてくれるスピノザの哲学は、そうした社会をとらえ直すきっかけになると語るのです。 そして著者は、スピノザは基本的な考え方が私たちと少し違っており、この哲学を理解するためには多少注意が必要になるのだといいます。著者がスピノザ哲学を大学で講じる際、学生に向けて、よくこんなたとえ話をするのだというのです。「たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリとして考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリをあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はうまくそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーティング・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない……。」そして著者は、「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」と言う時、私が思い描いているのは、このようなアプリの違いではない、OSの違いであると語り、スピノザを理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのだと語っています。現代は、あらゆる分野において行き詰まりを迎えている時代であり、これからの時代、すなわち新時代を、明るい希望で満ちたものにするためには、考えを変えるレベルではなく、考え方を変える必要があり、そういう意味でこれからの新時代には、スピノザ哲学的な考え方がきっと必要とされるのではないかと、私は強く感じているのです。 【スピノザの思想、そして「エチカ」とは?】 まず著者は、スピノザの思想は、教科書などではしばしば「汎神論」(森羅万象あらゆるものが神であるという考え方)と解釈されているが、日本で馴染み深い「八百万の神」のような多神教的な自然崇拝ではなく、スピノザの「汎神論」では神はただ一つなのだといいます。そして、スピノザの哲学の出発点にあるのは、「神は無限である」という考え方であり、ならば「ここまでは神だけれど、ここから先は神ではない」という線が引けないことになり、言い換えれば、神には外部がないということだというのです。神は絶対的な存在であるはずで、ならば神が無限でないはずがないし、そして神が無限ならば、神には外部がないはずだから、したがって、すべては神の中にあるということになります。これが「汎神論」と呼ばれるスピノザ哲学の根本部分にある考え方だと、著者は語っています。「神」という言葉を聞くと、宗教的なものを思い起こしてしまうことが多いと思いますが、スピノザの考え方は「神即自然」であり、むしろ自然科学的であり、宇宙のような存在を神と呼んでいるのだといい、それは非常に先進的であったと、著者は語るのです。 以上を踏まえて、「エチカ」の内容を見ていくと、まずタイトルの「エチカ」は、「倫理学」を意味するラテン語だといい、倫理学とはごく簡単に言えば、どのように生きるかを考える学問のことであると、著者はいいます。そして語源まで遡ると、エチカとしての倫理の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるのだというのです。仮に道徳が超越的な価値や判断基準を上から押しつけてくるものだとすれば、倫理というのは、自分がいる場所に根ざして生き方を考えていくことだといえると、著者は語っています。 【組み合わせとしての善悪】 そして著者は、ここを出発点にすると読みやすいとして、「エチカ」の第四部から解説をスタートしています。ここでは善悪の概念が検討されており、「善い」と「悪い」が独自の仕方で定義されることになるのだといいます。話は「完全」と「不完全」という概念の分析から始まります。私たちはこれらの言葉を日常的に使っており、たとえば建築途中の家を見ると不完全だと口にするのだと。では、なぜそれを不完全と呼ぶかというと、私たちが完成された家についての一般的観念をもっていて、それと比較しているからだというのです。完全/不完全は、しばしば自然界のものについても言われ、牛という動物について、牛の一般的観念と一致すれば、私たちはそれを完全と言い、そうでなければ、たとえば角が1本しかないから不完全だという具合だと語っています。しかし、この一般的観念というのはいわゆる偏見であると著者は語るのです。これまで何度も見たものに基づいて作られた観念にすぎないからだと。それぞれの個体はただ一つの個体として存在しているにすぎないのだと、著者はいいます。そして、そのことを指摘したスピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと語っているというのです。さらに著者は、このことはいわゆる心身の「障害」にも当てはまると語っています。「障害」というのも、マジョリティの視点から形成された一般的観念に基づいて判断されているにすぎず、個体それ自体は、一個の完全な個体として存在しているのだと語るのです。 そして、善悪の話が始まるのはここからだといいます。自然界に完全/不完全の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しないとスピノザは語っているのだというのです。では、自然界には存在しない善悪の考えが私たちのもとにもたらされるのはどのようにしてかというと、スピノザは「組み合わせとしての善悪」という考え方を提案しているのだそうです。例として取り上げられているのは音楽です。憂鬱な人と音楽が組み合わされると、その人には力が湧いてくるので、憂鬱な人にとっては音楽は善いものです。しかし、傷つき悲しみに沈んでいる人にとっては、音は悲しみに浸るにあたって邪魔でしかないかもしれませんから、そのような意味でその人にとって音楽は悪いものになります。耳が不自由な人には、音楽は善くも悪くもありません。つまり、自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものとうまく組み合わさらないものが存在する。それが善悪の起源だとスピノザは考えていると著者は語っています。たとえばトリカブトという植物は毒をもっています。しかし、それはトリカブトと人間の組み合わせが悪いということを示しているにすぎません。トリカブト自体はただ一つの完全な植物として自然界に存在しているだけです。トリカブト自体は悪くない。人間とうまく組み合わさることができないだけなのだと、著者は語るのです。 スピノザはこうして、世間一般で用いられている完全/不完全、善/悪の考え方のどこに問題があるかを明らかにしました。自然界には完全/不完全の区別などないし、それ自体として善であるものも悪であるものも存在しません。では、完全/不完全、善/悪といった言葉を使うのはやめようということなのかというと、そうではありません。スピノザは以上を踏まえた上で、これらの言葉を再定義して使い続けることにしようと提案するのだというのです。スピノザが考えようとしているのは、いかに生きるべきかという問いであり、この倫理学的問いに答えるためには、望ましい生き方と望ましくない生き方を区別することが必要です。もし完全も不完全もないし、善も悪もないというだけだったら、どんな生き方をしても変わりないということになってしまいます。ですから、世間一般でのこれらの用語の用いられ方を一度批判的に検討した上で、やはり善い生き方、悪い生き方を考えなければならないと提案しているのだと、著者は語っています。では何が善くて何が悪いのかというと、スピノザはあくまでも組み合わせで考え続けるのだといいます。先ほどの音楽の例でいえば、なぜ音楽は憂鬱な人にとって善いのかというと、それは音楽が落ち込んでいる人の心を癒やし、もっていた力を取り戻す手助けをしてくれるから、つまり力を高めてくれるからです。スピノザはこのことを、「活動能力が高まる」という言い方で表現しているのだそうです。私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものであり、そのことを指してスピノザは、「より小なる完全性から、より大なる完全性へと移る」とも述べているのだとか。完全性という言葉もこのような意味で使い続けようというわけです。 ここからもう一度、いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違いについて考えることができるでしょうと、著者は語るのです。道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制し、そこでは個々人の差は問題になりません。それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけだといいます。たとえば、この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうではないかもしれない。そのように個別具体的に考えることを、スピノザの倫理は求めるのだというのです。個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。たとえばこのトレーニングの仕方が自分に合っているのかどうか、それはやってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めるのだと。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということだと、著者は表現しています。そして著者は、もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずで、それが忘れられて結果だけが残っているのだと語っています。ですから、道徳だから拒否すべきだということにはならず、ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば、注意が必要になるわけですと、著者は語るのです。 スピノザの善悪の考え方は、その感情論と直結していると著者はいいます。スピノザは感情を大きく喜びと悲しみの二つに分けているのですが、より大なる完全性へと移る際には、我々は喜びの感情に満たされるのだと言っているのだそう。反対の場合は悲しみだと。「エチカ」では、大きく二つに分けられた感情が、たとえば愛という喜び、共感の喜びなどと、さらに細かく分析されているのだと著者はいうのです。そして、興味深いのはむしろ悲しみの感情の分析のほうで、たとえば、ねたみの分析などは実に見事ですと語り、スピノザの「何びとも自分と同等でない者をその徳ゆえにねたみはしない」という言葉を紹介しています。たとえば鳥が空を飛んでいるのを見ても私たちは、「なんであいつらだけ飛べるんだ!ずるい!」などとは思わないのだと。鳥を、自分たちと同等だとは思っていないからです。しかし、たとえば自分が同等だと思っていたクラスメートが優遇されたり、自分よりも高い能力を示したりすると、とたんに私たちはねたみの感情に襲われるのだといいます。同等だと思うがゆえにねたむわけですと、著者は語っています。スピノザによれば、ねたみは憎しみそのものですから、したがって悲しみの感情のひとつであり、そうやってねたんでいる時、私たちはより小なる完全性へと向かいつつあり、活動能力を低下させていることになるのだと著者は語るのです。つまり自分のもっている力を十分に発揮できない状態だと。自分の外側にある原因(ねたみの対象)に自分が強く突き動かされてしまっているわけですから、自分の力を十分に発揮できない、つまり活動能力が低下しているということになるわけです。 【スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等から新時代を考える】 さて、現代はあらゆる分野において行き詰まりを迎えている時代であり、閉塞感が蔓延し、誰しもが息苦しさや生きづらさを感じている時代であるともいえます。そんな時代に、スピノザの「完全/不完全」「善/悪」の考え方を導入したとき、そこに大いなる救いを感じるのは、私だけではないでしょう。「すべての個体はそれぞれに完全である」、「それ自体として善いものも悪いものもなく、善悪は物事の組み合わせで決まる」……何という大いなる救いの言葉でしょう!人は誰しも、自分の中に嫌いな自分がいて、それを欠点であるとか悪であるとかと認識しており、そのことが息苦しさや生きづらさの原因のひとつになっていたりします。しかし、考え方をスピノザのOSに切り替えた瞬間、すべての個体がそれぞれに完全であるならば、自分の中に欠点や悪など存在しないということに気づきます。欠点や悪に見えるものは、実は組み合わせが悪いだけなのだということに気づくのです。たとえば、短気という性格をもっている人の場合、確かに日常の家庭生活において、家族からは「怒りんぼ」と非難されることが少なくないかもしれません。しかし、災害などの緊急事態が起こった際には、その性格が素早い判断を生み、危機一髪で家族を救うことになるかもしれないのです。つまり、一見して欠点や悪に見えるようなどんな性格であっても、組み合わせが悪いというだけのことであり、組み合わせが善ければ、それは美点になるということなのです。また、ビジネスなどにおいては、若者は経験値が少ないため未熟でありまだ一人前ではないととらえられがちであり、逆にお年寄りは老化により動きが鈍いであるとか頭が固いであるとか、さらには老害であるととらえられがちです。障害をもっている人なども、同様にとらえられがちでしょう。しかし、このような方々もスピノザOSで、それぞれに応じた一個の完全な個体として存在しているのだととらえ直せば、組み合わせ次第で悪い方向にも善い方向にも、もっていくことができるのだということなのです。そして、このようなスピノザOSは、これからの新時代をどのように生きていくかという問いに対して、新たな答えの方向性を示してくれているように、私には強く感じられるのです。 しかもこのスピノザOSは、最初にお伝えしたとおり、現代の脳神経科学や医学からも、主張の正しさが証明されつつあるというのです。たとえば、スピノザは「情動」と「感情」を明確に区別し、さらにその順番として、「情動」の反応の後に「感情」が生じるのだと述べています。通常私たちは、「情動」も「感情」もほとんど同義語として使っていますが、脳科学においては、「情動」は「身体」における反応であり、「感情」は「心」における反応であるとされています。普通私たちは、怖いと感じる(感情)から、その結果、体が硬直したり心臓がドキドキしたりする(情動)のだと考えています。ところがスピノザはこの逆で、怖いものを見て特有の身体的変化が生じる(情動)から、その後に怖さを感じる(感情)のだというのです。私たちの通常の感覚では、スピノザの順番は間違っているとしか考えられないでしょう。しかし、世界的にその名を知られている脳科学者の奇才アントニオ・R・ダマシオは、著書である「感じる脳~情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ~」(アントニオ・R・ダマシオ 著 田中三彦 訳 ダイヤモンド社 2005年11月10日発行 2,800円+税)の中で、進化的に見れば、生物が最初に身につけたのは「情動」であって「感情」ではないのだといいます。「情動」やそれに似た反応は単純な動物にも見られるが、単純な動物に感情はないのだと。さらに、様々な事例を挙げ、この「情動→感情」の順番の証拠を次々と列挙しているのです。 ひとつだけ、その事例を取り上げてみましょう。パーキンソン病(正常に動く能力を危うくする神経疾患)患者の65歳女性が、脳幹に小さな電極を植え込み、高周波の弱い電流を流すという、いくつかの運動機能が復活する可能性がある治療法を受けた際の事例です。これまで患者の症状を改善した脳幹の部位から2ミリほど下に電流を流してしまったところ、予想もしないことが起きたのだといいます。患者は進行中の会話を唐突に止め、目を伏せて体を傾け、表情は悲しみのそれになり、数秒後突然泣きはじめたというのです。主治医が急いで治療を中止し、電流が止まって約90秒後、患者の行動は突然正常に戻り、微笑んでさえいたのだといい、「いったいあれは何だったの?」と彼女は主治医に尋ねたのだといいます。彼女の問いに対する答えは明白で、電流が意図したほど全体的な運動制御構造に流れていかず、特定の種類の作用を制御している脳幹核へと流れ込んだからだとダマシオは語っています。そして、それらの作用は、全体として悲しみの情動を生み出す、泣き叫んだり、すすり泣いたりするのに必要な、顔の筋肉の動きや、口・咽頭・横隔膜の動きや、涙をつくって排出するさまざまな作用も含まれていたのだというのです。さらに、悲しみの表情が完全にできあがり、それが展開されはじめた少し後に、患者は悲しみの「感情」を抱きはじめたのだといいます。そしてダマシオは、この患者における事象の順序は、「まず悲しみの情動があった」ということを暴いているのだと語るのです。 ダマシオは現在、南カリフォルニア大学が彼のために用意した「脳と創造性の研究所」において、「社会的な情動」が経済、ビジネス、政治制度にどのように寄与するかを研究しているのだといいます。そしてスピノザも、感情の重要性について説き、倫理について、神学政治論について、国家についても論じています。時代も研究方法も違う2人の天才が、情動や感情からスタートし、社会に向かっているという事実は、まさにスピノザOSが、これからの新時代の社会にとって、極めて重要であるということを示しているのではないでしょうか。 【スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等から酒類、日本酒、酒道を考える】 そして、スピノザの「完全/不完全」「善/悪」等の考え方は、酒類に対しても極めて重要な示唆を与えてくれます。コロナ禍で緊急事態宣言が発出された際、日本全国の飲食店に対して時短営業や休業が要請されました。さらに飲食店での酒類提供の禁止までが要請され、まるで酒類のみが悪者であるかのように扱われてしまい、コロナがインフルエンザと同じ5類に移行してからも、その影響は長らく尾を引いています。そこで私は、「酒道黒金流」において、以前「酒を悪者にしない『哲学』」の必要性について語らせていただきました。そこでは、「アルコール医学協会」の大切な役割、「集いの中で酒を酌み交わす」という行為の重要性、「味わう」という行為の重要性、「美味しさの感動を描写し伝える」という行為の重要性などについて、論じさせていただきました。そして今回、その「酒を悪者にしない『哲学』」の根本に、スピノザOSの「完全/不完全」「善/悪」等の考え方を置きたいと考えています。日本酒もビールもワインも、焼酎もウィスキーもブランデーも、ジンもリキュールも……すべての酒類はそれぞれに完全であり、それ自体として善いものも悪いものもなく、酒類の善悪は全て組み合わせで決まるのだということを、強く訴えたいと思っています。酒類自体が悪いのではなく、20歳未満の人や車の運転をする人との組み合わせが悪いのだということです。さらにコロナ禍でいえば、酒類自体が悪いのではなく、酒を飲んだ際の効用のひとつともいえるお互いが密になって酌み交わすという行為と感染症対策との組み合わせが悪いということになるわけです。このようにスピノザOSで考えると、酒類提供の禁止はやはりやり過ぎであり、もう少し別のやり方があったのでないかといえるでしょう。 そして、20歳未満でもなく、この後の運転もなく、通常の健康体であり、お酒が飲める人と日本酒が組み合わさったとき、さらにそこに和食が組み合わされば、それは素晴らしい善となるということなのです。和食以外でも、特にうま味の多い出汁を使った料理、苦味のある野菜料理、鶏卵や魚卵を使った料理、炭火焼きや干物などの燻製料理、酸味の強い料理、刺激の強い辛味のある香辛料やスパイスを使った料理、貝類や海藻類などのヨード香のある料理などに対しては、世界の食中酒の代表であるワインよりも、圧倒的に日本酒の方が善となるのです。また「酒道」についても、スピノザOSの「完全/不完全」「善/悪」等の考え方は、極めて重要な示唆を与えてくれます。「酒道」が自身と組み合わさったとき、活動能力が低くなるならばこの組み合わせは悪であり、活動能力が高まるならば、この組み合わせは善であるのだといえるでしょう。そして、「酒道」との組み合わせが善である人々が、この道を歩んでいくとき、スピノザ流に表現すれば、その人々はより小なる完全性から、より大なる完全性へと移っていくのだということになるでしょう。