【門前編】スピノザ哲学から考える新時代、そして日本酒と酒道!<Part.4> これまで3回にわたって、17世紀オランダの哲学者、スピノザの哲学を取り上げさせていただいていますが、今回はその第4回目で締め括りの回となります。難解なことで有名なスピノザですが、ベースとさせていただくのは、気鋭の哲学者である國分功一郎氏の「はじめてのスピノザ~自由へのエチカ~」(國分功一郎 著 講談社 現代新書 2020年11月20日発行 860円+税)という読みやすい新書本です。ちなみに本書の内容は、NHK「100分de名著」にて取り上げられた、「スピノザエチカ~『自由』に生きるとは何か~」の内容に新たに1章を加え、全体を再構成したものだとのこと。ですから、大変分かりやすく、かつメチャクチャ面白い書籍ですので、是非ご一読を強くお薦めします。 【スピノザ哲学は「もうひとつの近代」を示す】 これまで「善悪」(Part.1)、「本質」(Part.2)、「自由」(Part.3)というテーマで、スピノザ哲学を紹介してきましたが、今回は「真理」をテーマとして、スピノザの思考のOSが私たちの思考のOSといかに異なっているかについて、考えてみたいと思うと著者は語っています。そしてまず、歴史の話について語るのです。スピノザの生きた17世紀というのは、現代の私たちにまで続く様々な学問や制度がヨーロッパに概ね出揃った時代だといいます。制度として何より重要なのは近代国家ですが、私たちがいま国家だと思っている、領域があって主権がある国家という形態は、17世紀半ばになって出てきたものだというのです。そして、いわゆる近代科学もこの時期に出てくるのだといいます。たとえばニュートンは17世紀後半に活躍した人で、その科学の支えでもあった近代哲学も同じ時期に現れたのだというのです。17世紀は本当に現代というものを決定づけた重要な時代なのだと、著者は語っています。 16世紀から続く宗教戦争は、ヨーロッパを荒廃させたのだといいます。庶民が突然残虐な人殺しに走るような、それまでの人間観が根底から覆されることが起こり、物質的にも精神的にもヨーロッパが焼け野原になってしまったのだというのです。その廃墟の中からもう一度、すべてを作り直さなければならないというのが17世紀の思想的課題であったと思うと著者は語り、その意味でこの世紀を、「思想的なインフラを整備した時代」と呼んでいると語るのです。たとえばデカルトは近代哲学の、ホッブズは近代政治思想のインフラを作った人なのだといいます。そのインフラの上に、続く18世紀の思想が荘厳なアーキテクチャー、つまり建築物を築いていったのだというのです。そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、あるひとつの思想的方向性が選択された時代だったと考えることができるのだといいます。歴史に「もしも」はありえませんが、しかし、もしかしたら別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできるというのです。著者の考えでは、スピノザの哲学はこの可能性を示す哲学なのだといいます。それは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」に他ならないのだと。そしてこの「もうひとつの近代」に関わってくると思われるのが、スピノザの「真理」についての考え方なのだと、著者は語るのです。 【真理は真理自身の基準である】 スピノザは真理について、次のような非常に有名な言葉を残しているのだといいます。「実に、光が光自身と闇とを顕すように、真理は真理自身と虚偽との規範である。」……とてもカッコいい文言ですが、これだけ聞いても何が何だかよく分からないと思うと著者は語っています。この定理を理解するには、ちょっとした思考実験をしてみるといいとして、それをやってみましょうと語るのです。ここに言われる「規範」とは基準のことで、つまり後半部分だけを取り出すと、真理は真理自身の基準であり、そしてまたそれは虚偽の基準でもあるということになるのだといいます。真理の基準とは何かというと、それはおそらく、その基準に当てはめればどんなものでもそれが真であるか偽であるかが分かる、そういう定規のようなものでしょうと、著者は語っています。さて、誰かがそのような基準を発見したと言って見せてくれたとして、それを見せられた私は、当然次のような疑問を抱くでしょう。「この基準自体が真であるとどうして言えるんだ?」と。相手はどうするでしょうか。「じゃあ、この真理の基準が真だと言えるようなもうひとつ別の真理の基準を探してくるよ」となります。これ以上は説明する必要はないでしょうと、著者はいいます。もし彼がもうひとつ別の真理の基準を見つけ出してきたとしても、それに対して私はまた同じ疑問を抱かざるをえないのだと。つまり、真理の基準を作ろうとすると、真理の基準の基準の基準の……と果てしなく続く探索に陥ることになるというのです。これは何を意味しているかというと、真理の基準は存在しえない、もう少し正確に言えば、真理の外側にあって、それを使えば真理を判定できる、そのような真理の基準を見出だすことは原理的に不可能だということだと著者は語っています。それに照らし合わせれば真理かどうかが分かる基準を人間は基本的に持ちえないということであり、これは意外とショッキングなことだといいます。これはある意味で人間の知性に課された苦しい条件とも言えるかもしれないと語るのです。ならばどう考えればよいのでしょうか。この実に単純な、しかし実に深刻な逆説に対する答えが先の定理なのだといいます。つまり、真理の基準を真理の外に設けることはできない。真理そのものが真理の基準とならなければならない。そして何が真かを教えるものは、何が偽であるかも教えてくれるだろう。それが「真理は真理自身と虚偽との規範である」の意味するところだと、著者は語るのです。 では真理が真理自身の基準であるとは、どういうことでしょうか。それは真理が「自分は真理である」と語りかけてくるということだといいます。言い換えれば、真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないということだというのです。ここだけ聞くと納得できないかもしれませんが、しかし先ほどの簡単な思考実験で分かったのは、真理の真理性を証し立てるものを真理の外側に見出だすのは不可能だということでしたと著者は語ります。ここまでくると、「光が光自身と闇とを顕すように」という前半の部分の意味も見えてくるのだといいます。どんなものも光を当てないと見えません。しかし、ただひとつだけ光を当てなくても見えるものがある。それが光です。光はそれを照らす光を必要としない。光は光だけで自らを顕すことができる。真理もまたそれと同じだというわけですと、著者は語るのです。そして、先ほど実際に思考実験をしてみましたから、このような真理観が出てくる理由は分かるでしょうが、しかし納得できない方も多いはずだと著者はいいます。なぜならこの真理観では近代科学が成立しえないからだというのです。科学は新しく提示する実験結果や定理を公的に証明し、共有するというプロセスと切り離せません。「その定理を見てみれば真理だと分かる」というのでは科学にはならないわけだといいます。その意味で、スピノザの真理観は近代科学のあり方に抵触するのだと著者は語っています。 【真理と向き合う】 近代科学の方向性を作ったのは、スピノザより36歳年長の哲学者デカルトであるといいます。「我思う、ゆえに我あり(Cogito,ergosum)」、現代風に言い換えれば、「私は考えている、だから私は存在している」という命題で知られる哲学者がデカルトです。この命題はしばしば「コギト命題」と呼ばれるのだといいます。よく知られているように、デカルトの哲学は疑うところから始まるのだそうです。その疑いは過激です。感覚は人を欺く。だから感覚で受け取ったものは確実とは言えない。感覚で受け取ったものはすべて疑わないといけない。いま自分は暖炉のそばに冬着を着て座っているが、それも感覚によって知られることだ。それを疑うのは馬鹿げているかもしれない。しかしもしかしたら自分は夢を見ているのかもしれないではないか。だから、私には体があるということすら確実ではないのだ。……こうしてデカルトは疑いを極限まで突き詰めたのだといいます。それはもうほとんど狂気に接するほどだと。しかしその中でデカルトは、次の真理を発見するのだというのです。いま自分は疑っている。疑っているということは考えているということだ。そして、考えているならば、考えている自分が存在しているはずだ、と。様々なものに疑いを投げかける指先を、くるりと自分に向けた時、考えている私が存在していることは疑えないと気づいたのだというのです。デカルトはこの「私は考えている、だから私は存在している」を第一真理として、それを足がかりに哲学を構築していったのだと著者は語っています。その際に、デカルトは真理の基準というものを打ち立てたのだといい、それが「明晰判明」だというのです。これはくっきりと光が当たって明るく、他からはっきりと区別されていることを意味するのだといいます。「私は考えている、だから私は存在している」という真理は明晰判明であり、このように明晰判明であれば真理として認めてよいとデカルトは考えたのだというのです。デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところだといいます。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです、と。「私は考えている、だから私は存在している」を口先では疑うことはできます。しかし、「私は考えている。考えているならば、その考えている私は存在しているということではないか」と言われれば反論できません。デカルトの考える真理は、その真理を使って人を説得し、ある意味では反論を封じ込めることができる、そういう機能を備えた真理なのですと、著者は語るのです。 それに対してスピノザのほうはどうでしょうか。スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではないのだと著者はいいます。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっているのだというのです。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのだと。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるというわけですと、著者は語るのです。そして、スピノザの真理観を伝えるもう一つの定理を見てみましょうと語り、次の定理を紹介しています。「真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。」……ここでターゲットになっているのはおそらくデカルトであろうと思うと、著者は指摘しています。デカルトはどんなに真であると思える観念であろうとも、それを疑わざるをえなかったのだといいます。デカルトはこの閉域を何としてでも突破しようとして、説得する力をもった強力なコギト命題を必要としたわけだというのです。ある意味でコギト命題が説得しようとしているのは、デカルト本人なのだと、著者は語っています。それに比べるとスピノザは何とおおらかなことでしょう、と。「真の観念を獲得すれば、それが真だと分かるよ」と言っているのですから。デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじ、それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされており、自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのだというのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけですと、著者は語るのです。 【物を知り、自分を知り、自分が変わる】 真の観念を有する者は同時に自分が真の観念を有することを知るとは、真の観念を有する者だけが真の観念の何たるかを知っているということでもあり、これは言い換えれば、真の観念を獲得していない人には、真の観念がどのようなものであるのかは分からないということでもありますと、著者は語っています。そしてこんな風に考えてみましょうというのです。もしもあなたがスピノザ本人に会いに行ったとして、「スピノザ先生、あなたの考える確実性とは何ですか?」と訊いたとします。あなたの懇願に負けてスピノザは一生懸命に説明してくれるかもしれませんが、どれだけ本人から説明を受けたところで、そのように説明を受けただけでは、スピノザの考える確実性を理解することはできないでしょうというのです。なぜならば、確実なものを認識してみなければ、確実性とは何かは理解できないからですと。そして、スピノザは最初に挙げた「真理は真理自身と虚偽との規範である」という文言の直前でこう述べているのだといいます。「あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。」……どういうことかというと、著者はこの文言を次のように解説しています。「いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ」、そのように感じることができるのは、何かを確実に認識した後のことだとスピノザは言っているのだと。何かを確実に認識した時、人はその何かについての認識を得るだけでなく、確実さとは何かをも知ることができるのだというのです。それは、自分が確実さをどのように感じるのかを知るということでもあるのだといいます。何ごとかを認識することは、その何ごとかだけでなく、自らの認識する力を認識することでもあるのだというのです。何かを知ることで、私たちは自分たちのことをよりよく知ると言ってもよいでしょうと、著者は語っています。 そして著者は、自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらすのだといいます。つまり、何かを認識することと、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのだというのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していくのだと。真理は単なる認識の対象ではなく、スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられているわけですと著者は語るのです。たとえば前回「Part.3」にて、自由意志の問題点を詳しく検討しましたが、もしあなたがこれまでこの概念を漠然とであれ信じていたとしたら、この概念の問題点を理解するためには、自分の考えのどこがおかしかったのか、どこをよく検討せずに信じていたのかに気づかなければならないのだといいます。そしてそれに気づくことは、ほんの少しですが、これまでの考え方に変化をもたらすわけですから、あなたの主体が変化することを意味するのだというのです。その時、あなたは単に自由意志の問題点を理解しただけでなく、自分なりの理解する仕方を知り、「なるほど」という納得感の感覚をも得ることになるのだと。このように認識はスピノザにおいて、何らかの主体の変化と結びつけて考えられているのだといいます。自らの認識する能力についての認識が高まっていくわけですから、これはつまり、少しずつ、より自由になっているのだと考えることができるのだと著者は語るのです。 【主体の変容と真理の獲得】 スピノザの哲学が、何かを理解する体験のプロセスをとても大事にしていることが分かるでしょうと、著者はいいます。何かを認識し、それによって自分の認識する力を認識していく。このように認識には二重の性格があるのだというのです。スピノザはそこに力点を置いたのだと。このような真理観はある意味で密教的とも言えるかもしれませんと、著者は語っています。真理のそれに向かう自分との関係だけが問題にされているからですと。そして著者は、これまでの内容を十分に理解した人は、理解したが故にある疑問を抱くかもしれないというのです。人は自らの力を十分に表現するように行為している時に能動的と言われるのでした。しかし、そのような表現をどうやって公的に証明したらよいかというと、おそらくできないのだといいます。自分とうまく組み合うものと出会った時、人はその活動能力を増大させます。それが善いことでした。しかし活動能力の増大をどうやって証明できるのでしょうか。こちらはもしかしたら生理学的に証明できる値もあるかもしれませんが、基本的には難しいだろうと言わざるをえないのだというのです。私たちはこれまで、どうして力としての本質という考え方が必要なのか、どうして活動能力という考え方が必要なのか、どうして力の表現としての能動の定義が必要なのかを見てきました。しかし、近代科学的な視点で眺めるならば、それらは、もしかすると根拠がないと言われてしまうかもしれないのだと著者は語るのです。エヴィデンスを出すことも、公的に証明することもできない事柄だからですと。私たちの考え方は強く近代科学に規定されており、私たちの思考のOSは近代科学的ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれないのだといいます。これこそが、著者が「Part.1」にて述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他ならないのだというのです。近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。私たちは日々、その恩恵に与って生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。しかしそのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのですと、著者は語っています。近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。近代科学では、たとえばスピノザの考える表現の概念は扱うことができません。しかし、「Part.3」で見たように、この表現の概念がなければ、カツアゲ程度の行為すら、我々は十分に説明できなくなってしまうのですと、著者は語るのです。 デカルトとスピノザの真理観の違いに注目した哲学者としてミシェル・フーコーがいると著者はいいます。フーコーは「主体の解釈学」という講義録の中で、かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていたと指摘しているのだと。ある真理に到達するためには、主体が変容を被り、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。この考え方が決定的に変わったのが17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいるのだといいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。フーコーはしかし、17世紀には1人例外がいて、それがスピノザだと言っているのだといいます。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけで、これは実に鋭い指摘だと、著者は語っています。 【AIアルゴリズムと人間の知性】 そして著者は、現代社会の話として、AIが人間に近づくことではなく、人間がAIに近づくことに危惧を抱いているのだといいます。現代社会はマニュアル化が進み、人間そのものが一つのアルゴリズムのように扱われています。一定の情報をインプットすると、演算結果をアウトプットしてくれる存在というわけです。アルゴリズムのように扱われるということは、いくらでも取り替えがきく存在として扱われることを意味し、実際にそうなりつつあるのだというのです。そこでは労働を経ながら、労働者の主体が少しずつ変容するというプロセスは無視されてしまいます。「熟練」という言葉は死語になりつつあるというのです。またマニュアル化は徹底されていて、現在の接客業では情動レベルにまでそれが浸透しているのだと。たとえばどんな場合にどんな風に笑いなさいということまで決められているのだそう。社会が人間に「アルゴリズムになりなさい」と命じているような状態であるといえます。そのような労働を強いられている人たちであれば、自分たちの仕事がAIに取って代わられるかもしれないと無意識に危惧を抱いても不思議ではないと著者は語るのです。 スピノザ哲学を使って、そのような状態を変革する解決策がすぐに提示できるわけではありませんと著者は語り、「しかし」として、次のように語っています。これまでに勉強してきたスピノザのさまざまな概念、すなわち、組み合わせとしての善悪、力としての本質、必然性としての自由、力の表現としての能動、主体の変容をもたらす真理の獲得、認識する力の認識……これらの概念を知るだけでも、この社会の問題点を理解するヒントにはなるはずですと語るのです。現代社会は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しつつある社会だと思うと語り、そんな社会を生きる私たちにとって、選択されなかったもうひとつの近代の思想であるスピノザの哲学は多くのことを教えてくれるのだと。近代のこれまでの達成を全否定する必要はありませんが、しかし反省は必要だと著者は語り、スピノザはその手助けをしてくれるのだと結ぶのです。 【スピノザの真理観から酒道を考える】 さて、スピノザの真理観を学んで私は、これこそまさに「道」の真理観であると感じました。確かに著者の言うとおりスピノザの真理観では、近代科学は成立しえません。しかし、ではそれは近代のどこにも存在しえないのかというとそうではなく、日本文化の「道」の思想の中に存在しているではないかと感じたのです。「道」の思想も、たとえばある人が「この道を究めた」としても、それを公的に証明することは不可能でしょう。著者も指摘していますが、近代科学はとても大切ですが、それは万能ではなく、扱える範囲がとても限られており、現代に存在していることの中にも、近代科学では証明できないことが実はたくさんあるということなのです。 そして、そのうちの一つが「酒道」であるのだと思っています。私の目指す「酒道」も、一つ真理を獲得すれば、「ああ、これは真理だ」と分かるのであって、それ以外に真理の真理性を証し立てるものはないのです。さらに「酒道」においても、何かを認識することと、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。そうして「道」を究めていく途上において、自身が変化しレベルアップしていき、少しずつより自由になっていき、いつしか「道」そのものを体現できるようになれば、自由自在の境地に達することができるのだと確信しています。 【まとめ:スピノザ哲学から考える日本酒と酒道】 これまで4回の長きにわたって、スピノザ哲学を紹介し、そこから日本酒と酒道を考察してきましたが、最後にこれらを簡単にまとめて紹介しておきましょう。まず「Part.1」のスピノザ哲学の「善悪」の概念からは、すべての酒類はそれぞれに完全であり、それ自体として善いものも悪いものもなく、酒類の善悪は全て組み合わせで決まるのだということを、酒類業界はもっと強く訴えるべきではないかという考えが導き出されました。そしてそこから、「酒を悪者にしない『哲学』」が、我々には必要であるという結論に、私は至ることができたのです。次に「Part.2」のスピノザ哲学の「本質」の概念からは、人間関係における潤滑油となるのが、まさに「酒」という存在が本質として持っている力なのだという考えが導き出されました。さらに、「差しつ差されつ」という言葉が表しているとおり、より親密な関係性を築くために最もふさわしい酒が日本酒であると気づかされました。さらにさらに、「酒道黒金流」が推奨する「おきゃく(土佐流宴席)」文化の特徴である「なかま」(「同士」の意味プラス「共有」の意味)文化は、老若男女の区別なく子供や見知らぬ他人までも、飲める者も飲めない者も楽しめるよう、誰もが「なかま」となって一体となる、そんな素晴らしい宴席文化の世界がそこにはあるのだと気づかされました。そして、これはまさにスピノザの言う、「一人ひとりのコナトゥスを大切にしながら、人々が共同で安定して暮らしていく」ための大いなるヒントが、この土佐の「おきゃく」文化、「なかま」文化にあると言えるのだという結論に、私は至ることができました。 続いて「Part.3」のスピノザの「自由」の概念からは、酒について多くの示唆を与えてもらいました。その人にとっての必然的な法則や条件が酒に向いていない人もいるのだということ。酒の美味しさや楽しさ、日本酒の美味しさや楽しさを知るには、少しずつ実験しながら学んでいくしかないのだということ。唎酒体験やペアリング体験など、少しずつ実験しながら日本酒の美味しさや楽しさを学んでいくならば、次第にいろいろなことが自由自在になっていくのだということ。そして、「自由は土佐の山間より」という県詞のとおり、日本における「自由」の発祥の地である土佐の高知に、飲める人も、飲めない人も、健康な人も、病気の人も……全ての人々が少しずつでも真の意味で自由になっていくことができる……そんな社会をいつか実現させたいという結論に、私は至ることができたのです。そして最後に「Part.4」のスピノザの「真理」の概念からは、前記のとおりですが、現代に存在していることの中にも近代科学では証明できないことが実はたくさんあり、その一つが「道」の思想であり、「酒道」もその一つなのだと気づかされました。さらに「酒道」においても、何かを認識することと、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらします。そうして「道」を究めていく途上において、自身が変化していき、少しずつより自由になっていき、いつしか自由自在の境地に達することができるのだという結論に至ることができました。そして、これらスピノザの「善悪」「本質」「自由」「真理」の概念から導き出された内容や結論を、私は今後の人生の全てを懸けて、一つひとつ実現していきたいと考えているのです。