【門前編】「本当の自分」とは?「中間」の思想と日本酒!

First part of the gate

今回は前回の続きで、少し以前の発行になりますが、大変読みやすい100ページほどの短い書籍、「哲子の部屋<Ⅲ>~“本当の自分”って何?~」(監修:千葉雅也NHK「哲子の部屋」制作班河出書房新社2015年5月30日発行980円+税)を参考に、まずは「本当の自分」について考え、そしてそこから日本酒についても考えてみたいと思います。ちなみにこの書籍は、哲学者の千葉雅也さんを指南役に、女優の清水富美加さんと異才タレントのマキタスポーツさんという、3人の鼎談形式にて書かれています。またこの書籍は、「ATP賞」を受賞したNHKEテレ特番「哲子の部屋」第二弾(2013年8月20日放送)を元に、未放送の収録内容を大幅に加えて再構成したものなのだそうです。 【アイデンティティの悩み】 まず千葉先生は、次のようなサカナクションの曲、「アイデンティティ」を清水さんマキタさんに聞いてもらいます。「どうしてまだ見えない自分らしさってやつに朝は来るのか?アイデンティティがない生まれないらららら」……そして、「“本当の自分”って一体、何なのか?」ということに悩んでいる歌詞だと説明しています。さらに、「アイデンティティ」とは、「(自己)同一性」というのが堅い言い方であり、言い換えると「自分が自分であるということ」だと語っています。今の時代はインターネットの影響も大きく、「情報」があふれ、自分のやりたいことをいくらでも「選べる」わけですが、しかし最初から選択肢があふれていると、何が重要で何が重要じゃないか分からないのだといいます。そういう状況がリアルだと思うと、千葉先生は語るのです。そして、そんな「アイデンティティの問題」を、今日は哲学してみたいと語り、対話のきっかけになるような言葉として、以下の「きょうのロゴス」(※ロゴス=ギリシア語で言葉という意味)を紹介しています。 <きょうのロゴス>「人はみな“変態”である」 「変態」という言葉が受け入れがたい清水さんに、千葉先生は、日本語で「変態」という言葉には二つの意味があり、「アブノーマル」「性的な倒錯者」という意味と、もうひとつは生物学の用語で、芋虫がサナギになってチョウチョになることも「変態」というのだと紹介しています。それはまさに、「形が変わる」ということで、カタカナで言うと「メタモルフォーズ」というのだと語るのです。そして、「アイデンティティ」の問題を考えるのに、この「変態」というキーワードが使えるんじゃないかと語り、第一幕を締め括っています。 【アイデンティティは“変態”する】 第二幕の冒頭で千葉先生は、この「アイデンティティ」の問題にズバッと答えた哲学者として、現代哲学の巨人ジル・ドゥルーズの次の言葉を紹介しています。 「私と言うか言わないかが、もはや重要でない地点に到達することだ」(ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ「千のプラトー」より) 意味が分からないという清水さんとマキタさんに、千葉先生は解説していきます。「私」というのは一人称であり、「自分」というものを定める言い方であると語り、要するにこれは、「もう私なんて言わなくていいんだ」と、ちょっと極端なことを言っているのだというのです。どういうことかと言えば、“本当の自分”とか「一個のアイデンティティ」なんていうモノはないんだ、そんなものは根本からないんだということを、ドゥルーズは言っているのであり、これがドゥルーズの唱えた現代哲学の根本原理だと、千葉先生は語っています。 そしてドゥルーズという人は、「常に自分は、別のモノに変化し続けている」ということを強く言った人であり、「変化」の哲学を説いた人だと千葉先生は語るのです。さらにここで言う「変化する」とは、難しく言うと「生成変化」という概念のことだといいます。「生成する」とは、生まれて湧き出てくるみたいな意味で、そうしてどんどん変化していくのだと。この「生成変化」こそ、今日のテーマの「変態=メタモルフォーズ」だと語り、具体的な例を挙げていくのです。まず千葉先生は、服を「着替える」ということも、実は「変態する」ことじゃないですかと語りかけます。たとえば、「大阪のおばちゃん」の「ヒョウ柄」のセーターも、気持ちがアガるとかがあるのでしょうが、そんな大阪のおばちゃんも、地味なババシャツを着ている時もあるわけで、それぞれの文脈のスタイルにハマっているのだといい、それが服を着替えて「変態する」ことではないかというのです。そして、このたとえは外見だけの問題ではなく、人間の「中身」の問題でも同じことがいえるのではないかといいます。実際、その都度、状況に応じて「人格を着替える」みたいなことがあるのではないでしょうかと指摘し、次の有名な曲を紹介するのです。 「家のなかでは トドみたいでさ ゴロゴロしてて あくびして(中略)だけどよ 昼間のパパは ちょっとちがう(中略) 働くパパは 男だぜ」(「パパの歌」/忌野清志郎) こんなふうに「職場」と「家」で、あるいは状況によって、自分の中身も変わるということ、ありますよねと千葉先生に説明され、うなずく清水さんとマキタさん。そして、どこかに“本当の自分”があるとか、裏には“本当の顔”があるはずだとかではなく、その都度「仮の自分の姿」にハマっていて、また別の「仮の姿」にハマり直すというような、そういう人格のスイッチングみたいなことを、毎日やっているんじゃないかと千葉先生はいいます。ですから、あらゆるものが常に「変化」し続けているというドゥルーズの哲学でいうと、“唯一の、本当の自分”というものは、そもそも存在しない、「私」なんていうふうにはもう言わなくていいんだと。その都度、全部「自分」なんじゃないですかと千葉先生は語るのです。 ここで千葉先生は、話をもう一段深めるために、「アイデンティティ」と「変態」の問題を現代的に描いているスゴイ映画があるとして、清水さんがヒロインを演じた「HK/変態仮面」を紹介しています。驚く清水さんに、一見したところおバカなコメディ映画ですが実はとても深い作品で、もう教育的だとすら言えると千葉先生は絶賛するのです。 「パンティーをかぶると潜在能力が引き出され、超人的なパワーを発揮する正義のヒーロー『変態仮面』の正体は、平凡な高校生狂介。普段の自分と、正義のヒーローでありながら見た目がヘンタイである自分との狭間でもがき苦しむ。本当の自分は何なのか、『アイデンティティの悩み』を抱える。その後、狂介は敵との闘いを通して、見た目がヘンタイである自分を肯定できるようになる。そこに最強の敵・戸渡先生が現れる。彼は『ニセ変態仮面』となり、町じゅうで悪事を働く。『変態仮面』どうしの頂上決戦。ここから“不可解”な対決が始まる。自分で自分を縛り床に転がっているという、『ヘンタイ度』ではるかに勝る戸渡先生に、『オマエのヘンタイなどヘンタイではな~い!』と指摘され、「ヘンタイ」という“アイデンティティ”を否定されてしまう狂介。『勝てない……。このヘンタイには、勝てない……。』『オマエごときに変態を名乗る資格はない!』どちらがより『ヘンタイ』かを比べる対決に引き込まれ、自信を失い、敗北してしまう。『オレは……ノーマルなのか……』」 そして、この対決シーンを哲学的に考えてみたいと思うと千葉先生は語るのです。まず戸渡先生は自分で自分を縛って床に転がっていて、やっつけようと思えばいくらでもできるのに、そうしないのはなぜなのか、と。つまりポイントは、実は狂介はあの勝負に負けてない可能性があり、ただ戸渡先生と自分を比較して、負けたと思い込んでいるだけなのだというのです。どうしてそう思い込んだのかといえば、それは戸渡先生のヘンタイ度が上だからですが、ではあの二人はどう違っているんでしょうと千葉先生は指摘します。哲学的にあの対決を見ると、「アイデンティティ」をめぐる見方で整理でき、つまり戸渡先生は「よりヘンタイになればいい」という「ヘンタイ・アイデンティティ」を極めようとしている人であり、狂介は彼に比べると「中途半端」だったのだと。そして狂介がなぜ「負けた」と思い込んだかというと、「自分には、本当のアイデンティティがない」ということに囚われて、それで負けたのですが、しかしそれは戸渡先生と“表裏一体”なのだというのです。どちらも結局、「ヘンタイ(アブノーマル)なのか?ノーマルなのか?」というアイデンティティ問題にこだわっているから、ああいう勝負になるのだといいます。一方は「アイデンティティを追求する」、他方は「アイデンティティがないということを突き詰めてしまう」ということで、まさに“表裏一体”なのだと。「自分は何者だか分からない」というのを突き詰めると、「自己否定」の深みに陥るのだといいます。では、その「アイデンティティ追求」と「自己否定」という、この袋小路からどう抜け出したらいいのか、映画「HK/変態仮面」のその後を見て、そのヒントを考えてみましょうと語り、千葉先生は第二幕を締め括るのです。 【「ハンパな自分」の肯定】 「再び敵が襲いかかる中、狂介は変身を試みるが……。『オレは変身することすらできなくなっちまった……。』追い込まれた狂介は、“ある考え”に至る。『違う!ノーマルじゃ助けられないなんて、誰が決めたんだ!』“変身”しないまま、闘いにのぞむ狂介。ここで“中途半端”を認めた主人公は、再び“変身”を遂げる!『俺はある重要なことに気づいた。』『なんだ?』『ヘンタイであればあるほど強い、などという法則はどこにも存在せん!』『気づいてしまったか、その事実に……。』『だから俺は、自信を持って闘う。たしかにオマエほどのヘンタイではないがな!』ヘンタイか、ノーマルかというアイデンティティを突き詰めず、今の自分を肯定し、自信を取り戻す!」 というわけで、狂介は「ノーマルな自分」も「ヘンタイヒーロー」の自分も、「どっちも自分である」ということに気づくわけで、ですからこれはまさに「アイデンティティを突き詰めない」ということになる。突き詰めずに、さまざまに「変化」する“中途半端な自分”を肯定することによって、真の「変態(メタモルフォーズ)」ヒーローになるというわけですと、千葉先生は語っています。そして、変態仮面が「アイデンティティ追求」と「自己否定」の袋小路から抜け出すには、「自分は、ハンパな変態仮面なんだ」ということを「それでよし」とするということなのだと語るのです。「中途半端な自分を肯定する」ことで袋小路から抜け出せる、“本当の自分探し”をずっと続けたところでキリがないのだといいます。そして、ここで千葉先生は、もう一つ次のドゥルーズの言葉を紹介するのです。 「興味深いのは、始まりも終わりも決してないということだ。興味深いもの、それは“中間”である。」(ジル・ドゥルーズ&クレール・バルネ「ディアローグ」より) この言葉には、ドゥルーズが「常に動き続けている世界」を、とらえようとしているという背景があるのだといいます。私たちも、仮にいま座っていたとしても、何か別の姿勢に変わる“途中”なわけで、全部途中で、本当の始まりの点「始点」とか、本当の終わりの点「終点」などはどこにもなく、みんな“中継地点”なのだと。世界は常にダイナミックに動いていて、その中で考えようということ……そういう発想から来ているのだというのです。しかし、「中途半端を肯定していいのかな?」と語り、何かを極めたいと思ったら競争から下りられないですよねという清水さん。千葉先生は、それはそうですねと語り、でも戸渡先生的な追及が偉いとは限らないのだといいます。実は途中でやめたり、「この程度でいいや」と思うことの方が難しいことがあるのだというのです。次に千葉先生は、ドゥルーズという哲学者は大きく言うと、「“同一性”ではなくて“差異”が大事だ」と考えた人なのだと語り、言い換えれば、「アイデンティティよりも、“違い”や“多様性”が大事だ」ということなのだと語っています。そして、ドゥルーズは「生成変化する自分」、常に変化する自分というものをすごく大事にする哲学だったわけですと語るのです。そもそも世の中に「本当にオリジナルなものなんて存在しない」と思うと語り、たとえば誰もが「言葉」をしゃべり「自分の考え」を表現していますが、そもそも「言葉」も自分で作ったものじゃないのだと。全部、外から聞いて覚えたもので、「自分という存在」もよそからいろいろ持って来たもので、それらの組み合わせでできているんだと思うと語り、だから「自分」という存在も、「他者からの寄せ集め」なのだと語るのです。ですから、逆に言うと、今日これから何か新しい素材を自分に取り込んで、別のものに「変態」することだってできるのだと。「揺るぎない一個の自分」より、さまざまに「変態(メタモルフォーズ)」していって、自分をリミックスすることだってできるわけで、それが「変態する」ということなのだと語っています。そして、ドゥルーズの哲学というのは、そういうことを私たちに教えてくれるわけですと語り、最初に紹介したドゥルーズの言葉を、もう一度紹介するのです。「私と言うか言わないかが、もはや重要でない地点に到達することだ。」……ですから、「〇〇でなければならない」という呪縛から逃れるということ、そこから逃れて「“中途半端でいびつな自分”でOKってことにする」ということかなと思うと、千葉先生は語るのです。 「アナタは『本当の自分』より『ハンパに変態する自分』を、愛せますか?」 【「中間」の思想と日本酒】 このドゥルーズの「中間」の思想をベースに、日本酒についても考えてみましょう。日本酒メーカーの人間なら誰しも、「日本一の酒を造りたい!」とか、「究極の日本酒を造りたい!」とか、一度は必ず思ったことがあるはずです。私もかつてはそうでしたし、正直今でもそんな気持ちを捨て去ることはできていません。司牡丹酒造は、昭和54(1979)年に特級酒を全て純米酒化し、翌年には一級酒を全て本醸造酒化して、いち早く高品質化路線を歩み始めていました。しかしその後、「神亀」や「富久錦」等の蔵元が全量純米酒化を成し遂げます。その時、私は「やられた!」ような、「負けた!」ような気持ちになったのです。また司牡丹酒造は、昭和37(1962)年から大吟醸酒を市販しており、吟醸酒市販の先駆けとなっていました。しかしその後、以前は吟醸酒など造っていなかった無名の蔵元が、吟醸酒や大吟醸酒で話題になったり、さらにその後、「獺祭」が全量純米大吟醸酒化でブレイクすると、ここでもやはり「負けた」ような気持ちを抱きました。他にも司牡丹酒造は、平成8(1996)年から「永田農法」による高知県産「山田錦」栽培を開始しており、同年生酛系仕込み(当時は山廃仕込み)を県内では初復活させています。ところがここでも、その後「新政」が、全量自県産米、全量生酛仕込み、さらに全量木桶仕込みを成し遂げてブレイクを果たし、やはり「負けた」ような気持ちになったのです。その都度その都度、気になって気になって、「負けた」と思い込んでしまう……「HK/変態仮面」の主人公狂介とまったく一緒です。しかし、どうでしょう?「全量純米酒」なら、「全量純米大吟醸酒」なら、「全量自県産米」なら、「全量生酛仕込み」なら、「全量木桶仕込み」なら……ならば偉いのでしょうか?ならば旨いのでしょうか?ならば日本一の酒なのでしょうか?ならば究極の日本酒なのでしょうか?……違うはずです。そんな法則はどこにも存在しないのです。これらを達成すれば、確かに分かりやすいですし、伝わりやすいですし、話題になりやすいですし、マニア受けしやすいでしょうが、それだけのことなのです。 様々な日本酒の鑑評会やコンテストやコンペティションも同様です。金賞を獲れば、メダルを獲れば、第1位獲得や優勝をすれば、確かにそれは偉いでしょうし、旨いかもしれませんし、その時は日本一の酒かもしれませんし、究極の日本酒なのかもしれません。しかし、たとえ今年は第1位を獲得しても、来年はどうなるかは分かりません。現実の酒造りには終わりなどないのですから。しかもどんなコンテストであれ、必ず審査員がいます。そのため、審査員メンバーの好みで賞が決まるとも言えるわけです。例を挙げれば、土佐酒は米国の「全米日本酒歓評会」では金賞受賞率で1位になるほど評価が高いわりに、欧州開催の「IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)」の「SAKE部門」では上位入賞しにくい等という傾向があります。つまり、絶対的な日本一の酒など、絶対的な究極の日本酒など、実は存在しないということなのです。 そろそろ日本酒蔵元も、「アイデンティティ追求」と「自己否定」という、この袋小路から抜け出さなければならないのではないでしょうか。狂介が気づいたように、「だから俺は、自信を持って闘う。たしかにオマエほどのヘンタイではないがな!」と断言すべきなのです。「全量〇〇化」を達成したり、何かの賞を獲得したら、その時は素直に悦べばいい。しかし酒造りに終わりなどなく、常に中継地点なのですから、慢心などしている場合ではないし、ここでハッピーエンドでもない。その後も、突き詰めることなく、さまざまに「変化」する“中途半端な自分(自社)”を肯定することによって、真の「変態(メタモルフォーズ)」ヒーローになっていくのですから。 そしてこの袋小路は、酒類卸や酒販店や飲食店の方々も、酒道家を目指しているような皆さんでも、同様に陥りやすい罠であるといえるでしょう。周りの同業者や仲間が、何かを達成したり、何かの賞を獲ったり、何かで話題になったりしたら、「負けた」ような気持ちになってしまうこともあるかもしれません。しかしそれは実は、相手と自分を比較して、自分で負けたと思い込んでいるだけなのです。酒類業の仕事や飲食業の仕事にも、酒道家の道にも終わりなどないし、常に中継地点なのですから、「ここで勝負が決まった」わけではないのです。その「相手ほど」の何かはないとしても、今後も突き詰めることなく、さまざまに「変化」する“中途半端な自分(自社)”を肯定し、自信を持って淡々と我が道を歩んでいけばいい。そんな歩みの中にこそ、真の「変態(メタモルフォーズ)」ヒーローへの道が隠されているのです。