【門前編】「M・ガブリエル日本社会への問い」、そして日本酒!<前編> 今回は、すでに「知日派」となったドイツの天才哲学者マルクス・ガブリエルさんが、2023年5月に来日された際のインタビュー内容を書籍化した、「マルクス・ガブリエル日本社会への問い~欲望の時代を哲学するⅢ~」(丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班NHK出版新書 2023年12月10日発行 880円+税10%)の内容をご紹介し、欲望の時代を哲学しながら、そこから日本酒についても考えてみたいと思います。まずは、その「前編」をお届けいたしましょう。なお、この書籍は、「欲望の時代の哲学2023~マルクス・ガブリエルニッポンへの問い~」(NHKBS1 2023年8月5日放送)というテレビ番組を書籍化したものなのだそうです。 【「入れ子構造の危機」と「近代文明の終焉」】 まずディレクターからの世界の現状をどう見るかとの質問に、ガブリエルさんは、「ネステッド・クライシス」=「網の目の危機」/「入れ子構造の危機」と呼ぶべき時代に生きていることは確実だと語っています。ポリクライシス=「複数の危機」がある状態なのではなく、相互に絡み合った影響し合う輪の中において、もはや一つの危機が他の危機の一部となって組み込まれているような状態なのだというのです。そして、その前提として忘れてはならないのは、今起きているすべての出来事の背景には、気候危機があるということだといいます。つまり、気候変動に関して高まっている社会意識と、気候変動が進んでいる事実のミックスが、人間の行動を変えていることは、間違いないのだと語るのです。 中国に目を向けてみると、その実施されたコロナ対策によって、より権威主義的になったことが、はっきりと見て取れたのだといいます。そして私たちがこれから考えなければならないのは、もう一つの大国インドの存在なのだというのです。人口に関しても、中国を追い抜いたインドですが、インド経済には独特の活気があり、他とは異なる経済の形、他の文化圏とは異なる独特な基準や価値観があるように見えると語っています。インドには10億人以上のヒンドゥー教徒がいますが、彼らは自分たちは永遠に続く「輪廻転生」の一部であると信じており、輪廻転生により、今生での社会的役割が決まっていると考えている……それがカースト制度なのだというのです。独特な信仰を持った100人程度の小さな宗派の話などではなく、10億人以上の巨大な集団を支える文化の背景にある、深いものの見方、考え方の違いの話をしているのだと。地球上の他の場所にも、もちろん同様のことが見受けられますが、インドは特に、そのベースのある文化、思考のユニークさが際立っているのだといいます。なぜならインドのほとんどの人々が、私がこれからお話する、スタンダードな近代の話、近代の価値観を信じてはいないからだと、ガブリエルさんは語るのです。 科学と相性のいい近代の物語や思考のあり方は、「近代的なニヒリズム」と名づけることもできるのだといいます。つまり、個としての生物学的な生死のみが、すべてなのだと。ガブリエルさん自身は、この考え方が疑わしいとは思ってはいないのだと語りながらも、しかし、それにしても、この「近代的なニヒリズム」が真実であると、私たちは本当に分かっているのでしょうか、と問いかけるのです。フラットに考えてみれば、「近代的なニヒリズム」が近代経済学の思考のベースとなっていることも理解できるでしょう、と。そして私たちの多くは、近代経済学によって、経済を理解していますが、しかしもし、そのニヒリズムがほんの200年ほど前に現れた、単なる一地方の信念の体系に過ぎず、誤っている可能性さえあるとしたらどうでしょうと問いかけます。それが地球上に、ひとまずは真理のように扱われて広がったわけですが、その見方だけでは理解できない事象があるとしたら?……そしてもし、インド経済が成長しており、アフリカにも成長の兆しが見えるとしたら、なぜ私たちは、無邪気に「近代」なるものが続くと信じていられるのでしょうかと語るのです。 先日ケンブリッジ大学出版局の編集者に対してガブリエルさんは、「私は、ローマ時代から私たちが文明と呼んでいるものは終わりを迎えると考えている」と語ったのだといいます。文明が終わるとは、すべてが核戦争で燃えてしまうというような意味ではなく、「文明の終わり」は文明的な行為ではないのだというのです。この点を文明は理解できていないのだと。実は、人間の意識の変化によって、文明というものは終わりを迎えるのだといいます。環境保護運動は、既にその素晴らしい例を示しているといえると、ガブリエルさんは語るのです。たとえば、ここ数年ガブリエルさんが交流を持っているラテンアメリカのある先住民コミュニティは、ほぼ間違いなく、ドイツ国民をはじめ西欧諸国の人々のものの考え方に多大なる影響を与え、環境意識の向上に大いに貢献しているのだといいます。地球上の先住民コミュニティ、特にラテンアメリカとインドの先住民コミュニティの人々が、「この世のすべてが近代的なニヒリズムによって成立していたわけではない」ということを、私たちに気づかせるような行動を始めたのだと。彼らの文化における自然な思考や行動が、ドイツ国民の心を動かしているのだというのです。こうしたことを一例として、ガブリエルさんはインドを宗教上の超大国と見ているのだといいます。そして、このインドの思想的な力とも言うべき側面には、実に目をみはるものがあり、この側面が、遅かれ早かれ、中国との興味深い対立へと繋がっていくだろうというのです。そしてガブリエルさんは、私たちが目の当たりにしているとても大きな変化の一つは、まさに文明のゆっくりした死だと思うと語ります。文明とは特定の「共存の形態」なのであり、良い生活を送るための唯一の方法ではないのだと。文明とはある時代にローマ人が考えついたものに過ぎない、ある特定の方法による物事の理解の仕方なのだと語るのです。 【資本主義に起こっていること、そして日本的「切断」 】 続いて、ディレクターからの資本主義には何が起こっているのでしょうという質問に、ガブリエルさんは答えます。資本主義は、コンクリートというよりも水のようなものであり、常に流れて動いているのだと語るのです。資本主義とは不均一に流れ、動くシステムであり、だからこそ中国は見事にその一部になることができたのだといいます。中国は何千年も前から、うまく変化に対応してきたからだと。中国は、中国の主流の考え方は、道教や儒教などの思想になっており、その本質は変化の思想なのだと語るのです。「道の道とすべきは、常に道に非ず」……一般に守るべき道と考えられている道は、恒常不変の「道」ではない……これが「老子道徳経」の冒頭に老子が唱えた言葉であり、ガブリエルさんはその言葉を、激しい変化への適応力を表明しているものと読んだのだといい、そこに安定などないのだと語っています。すべてが変化すると考えていたならば、当然、資本主義の環境に適応するのもとてつもなく巧みなはずで、それが今の中国の成功の理由の一部だと考えているのだと語るのです。さらに、欧米の資本主義が、いまだに安定の獲得、今日の言葉で言えば「持続可能性」という考え方を前提にしている一方で、おそらく今日、超大国の中国は持続可能性など気にもかけていないのかもしれないのだといいます。ただ環境を破壊したいからではなく、どうやってもすべては変わりゆくと知っている、その世界観が根底にあるのですからと語るのです。 日本には「諸行無常」という言葉があり、今のお話に近しい概念として、ふと思い出したと語るディレクターに、ガブリエルさんは答えます。日本はもちろん、中国と似たような知的ソフトに基づいて動いており、変化についての考え方は日本でも非常に強力なのだと。しかし同時に、日本が中国と異なっていてユニークなのは……これが言わば日本の西洋的な要素なのですが……日本は、変化だけでなく「安定」も得ようとしたのだといいます。日本という国名の中には、「本」という漢字が入っており、その漢字自体にも意味があるように思えるのだと、ガブリエルさんは語るのです。「本」は「本質」という言葉にも使われる漢字で、日本は動いているにもかかわらず、同時に「本質」の感覚があるのだといいます。そこには、明確なカット=「切断」があるのだと。そして目に見えない明確な「切断」が、動きの中にあって確固たる仕組みを作り出している、その「切断」自体が動きの一部なのだと語るのです。こうしたものの見方をさまざまな文化にあてはめてみると、いろいろな日本文化の本質が見えてくるのだといいます。日本食、日本映画、日本での社会的な交流の形、日本語の構文など、さまざまな事象に関連しているのだというのです。しかし、この「切断」が興味深いのは、ある種の「流れ」も孕んでいる点で、すべては「流れ」ているのですが、「流れ」の中にあるのが「切断」なのだといいます。それが、日本と中国の大きな違いになっているというのが、ガブリエルさんの見方だと語るのです。そして、食について考えてみればさらによく分かるかもしれないのだといいます。中国はより多くのソースを使うという事実を考えてみてくださいと。明確な「切断」がないのだと。中国に明確な「切断」があるものは一つとしてないのだというのです。しかし、日本ではすべてに明確な「切断」がある、すべてにおいてあるのだといいます。つまりそれが変化に対する反応の一種なのだというのです。ですが、それは安定を得たいという欲求とは異なるのだといいます。それが動機ではないのだと。「切断」によって安定を得ようとする欲求は、より西洋的なものなのだというのです。ヨーロッパで、私たちの先祖は変化の中の安定を求めていたのだといいます。変化は悪で安定が善なのだと。古代ギリシャ時代から、大きく歴史の潮流を捉えたならば、私たちは永遠を求めているという言い方ができるでしょうと語るのです。そして、日本は永遠を求めていないのだと。日本は変化することを知った上で、同時に、明確な「切断」を求めているのだと、ガブリエルさんは語っています。 【日本的ヒエラルキー 】 続いてディレクターは、単純化し過ぎたくはありませんが、もしかしたらあなたは、日本の問題について、ある核心部分を突いたのかもしれませんと語ります。もともとは変化してきた民族ですが、安定志向が強くなったのか、今は変化を恐れているのかもしれないと。日本は「幸福度ランキング」では先進国の中でかなり低い位置にあり、「引きこもり」は国内に150万人にも及ぶと推定され、若者に限らず50代や60代の引きこもりも増加しており、さらに自殺率もとても高く、最近では治安の悪化も懸念されているというような日本の側面を挙げ、これらに関して理解できますかと、ガブリエルさんに問いかけます。素晴らしい質問だと語るガブリエルさん。分かっているのは、ガブリエルさんが「切断」と呼ぶものが、現在の日本社会には基本的に存在していることで、当然、それは大きな形態の心理的、そして一般的な暴力の両方に繋がりかねない、ということだと語るのです。2022年には元首相が殺害される事件がありましたが、こうした社会的に重大な事件に関しても、ある意味で十分な議論が交わされていないようにガブリエルさんの眼には映るのだといいます。このインタビューの前日のフォーラムで、ガブリエルさんが提唱する「倫理資本主義」の一部として、哲学と、ボトムアップの方法と、変化を呼び起こすための提案について話をしたのだそうです。しかし、日本のパネラーの皆さんは、「あなたが提唱する、価値観によって動く資本主義の形の、前提となるであろうその三つの要素は、日本で実現するのは難しい類いのものだ」、すなわち、「哲学」はまだ多少可能性があるかもしれないが、「ボトムアップ」はあり得ず、「変化」についても諦めた方がいい、と語ったのだといいます。この意見が本当であれば、日本は最も保守的な社会の一つであると言わざるを得ないとガブリエルさんは語り、そしてトップダウンやヒエラルキーに苦しめられることを考えたならば、そこには耐え難いものがあるに違いないのだと語るのです。 こうした心理的な圧力は、今までこの番組シリーズでもしばしば取り上げてきた、日本社会特有のスキルとも関わるのだと語り、高度なレベルでお互いの心を読み取る、日本的な「読心術」を挙げています。日本人は、ほぼ動かず、しかし常に他人の心を読もうとしているように見えるのだというのです。社会の流れ全体をも読もうとしているのだと。問題は、1億2,000万人以上の人々が、厳しい、固定的なヒエラルキーの中で、日々お互いに心を読み合っていたならば当然、おそらくどうやっても、上の目から、心理的な抑圧から、逃れることはできなくなってしまうだろうと、ガブリエルさんは語っています。また、ガブリエルさんが日本の方と仕事の上で些末なメールのやり取りをする際、残念ながら日本の多くの方々は、常に非常に無礼で攻撃的で、ルールに支配されているように感じるのだといいます。日本からのメールに5時間返事をしなければ、代わりに大量のメールが送られてくるのだと。5時間待ってもらえないというのは、「メールには即返信」という文化があるのでしょうかと、ガブリエルさんは指摘するのです。これについてはもちろん、日本の皆さんに謝っていただく必要はないと語り、単なる文化の違いであり、そのことをガブリエルさんは楽しめる立場だからいいのですと。しかし、そのメールの向こう側が想像できるのだといいます。このスピードで完全なコミュニケーションを求める心理は、いったいどんなものなのでしょう、と。こうしたやり取りを、かつてこの番組でガブリエルさんは、「精神的空手ゲーム」などと呼んだのだそうですが、相手プレイヤーが同じくらい強かったら問題かもしれないと語るのです。様々な場で精神力を使えば、日本人は商取引によって社会的な利益を得ることができるかもしれませんが、しかし日本においては皆が同様に「精神的空手が強い」のだとしたら、そう簡単には相手を倒せませんよね、と。日々、大変な精神の戦いが展開されているのだろうと推察してしまいます、と語っています。 【ガブリエルの語る日本文化の特性「cut」と日本酒 】 本書の著者である丸山俊一さんは、この書籍の「おわりに~『存在』と『カット』の共存への道~」にて、ガブリエルさんが「cut(カット)=切断」という言葉を多用しているのが今回の特徴であると語っています。そして、この「cut」には、「排除」(異邦人と思しき存在への排除など)の意味や、「遮断」(他者性の遮断など)の意味などに加え、さらには「切り取って整える」という意味も含んでいるのだと語るのです。たとえば「切る」こと以上に「整える」ことに主眼があると受け止めたら、理解にも奥行きが生まれることだろうとも語っています。少なくともガブリエルさんの目には、日本社会/文化の中に深く根付いていると見えている、日本的な「排除」「遮断」「整序」のありよう……それは、ガブリエルさんにとって必ずしもネガティブな意味だけを持つものではないのだと表現されているのです。 この「おわりに」の丸山さんの解説で、ガブリエルさんの語った「cut=切断」の意味が、私にはやっと明確に見えてきました。日本ではすべてに明確な「cut」があると語っていたガブリエルさん。そして、食について考えてみればさらによく分かるかもしれないと語り、「中国はより多くのソースを使うという事実を考えてみてください。明確な『切断』がないのです。中国に明確な『切断』があるものは一つとしてないのです。しかし、日本ではすべてに明確な『切断』があります。すべてにおいてです。」と語っていますが、この日本における明確な「切断」の事例が、ここではまったく挙げられていませんでした。そのため、「cut」の意味が見えにくくなってしまったといえるでしょう。そこで、日本の食における「cut」の事例を、私なりに考えてみました。まず、日本料理の代表ともいえる「刺身」を考えてみましょう。「刺身」は一見、生の魚をただ切っただけのように見えますが、実はその切り方には熟練の伝統の技が潜んでいます。つまり「刺身」とは、「切断」自体を料理に昇華させたものであると表現できるのではないでしょうか。さらに「刺身」とは、生の魚を生のまま食す料理であるため、清潔さ、つまり雑菌の「遮断」が欠かせない料理であるとも表現できます。さらにいえば、「刺身」とは「切り取って整える」料理であるとも表現できるでしょう。次に、日本料理の真髄ともいえる「出汁」を考えてみましょう。西洋のブイヨンのように材料を長時間煮込むようなものではなく、日本の「出汁」は、時間をかけて熟成させた材料を、水に浸すだけ、または短時間火にかけるだけで、素材が持つ風味のエッセンスそのものを抽出するというものです。つまり「出汁」とは、余分な風味や雑味などの徹底した「排除」によって完成するものであるとも表現できるのです。……このように考えていくと、日本料理の本質は「cutの料理」であるとも表現できるのではないでしょうか。 そして、いよいよ日本酒について考えてみましょう。まず日本酒造りにおける「精米」とは、原料米の外側を「削り取って整える」ことであり、その目的は雑味の「排除」でもあります。次に、日本酒造りにおける「洗米」にとって重要なのは、水分調整であるといえます。つまり、いかに水分をうまく「切る」かが重要であるのです。ちなみに、日本酒の原料である稲は水田で栽培されますが、上質な酒米作りは後半にいかに上手に水田の水を「切る」かが、実は重要になるのです。さらに、日本酒とは世界でも大変珍しい「並行複発酵」という極めて複雑な発酵方法で生まれる発酵食品です。つまり、「日本酒」とは、雑菌の「遮断」が生命線の酒類であるといえます。そして、こうして生まれた上質な日本酒には、後口の「切れ」の良さが生まれ、味わいの濃い料理などと合わせていただいた場合など、口中に残る風味をしっかりと「切って」くれ、もう一口に進ませてくれるのです。……このように考えていくと、日本酒の本質は「cutの酒」であるとも表現できるのではないでしょうか。 このように深く考えていくと、確かにガブリエルさんの語るように、日本文化の特性は「cut」なのだといえるかもしれません。しかし、ガブリエルさんのような知日派の方は別として、一般的な外国人にとってその「cut」という特性は、異邦人と思しき存在への排除や他者性の遮断など、ネガティブな意味に捉えられがちであるといえます。そこで、この日本的「cut」が、必ずしもネガティブな意味だけを持つものではないのだと、多くの外国人の方々に理解していただくために、日本料理における「cut」の事例や、日本酒における「cut」の事例は、大変有効であるといえるでしょう。今後、日本料理がさらに世界に普及し、日本酒がさらに世界に普及していくことが、そんな日本文化の特性の理解に、きっとつながっていくことになるでしょう。