【門前編】酒を悪者にしない、「享受の快」の「哲学」!<後編>

First part of the gate

【門前編】酒を悪者にしない、「享受の快」の「哲学」!<後編> 「酒道黒金流・門前編」<其の弐>の10回目に、「酒を悪者にしない『哲学』~『集い』『味わう』『描写』の重要性~」というトピックがありました。前回と今回はその続編的な内容であり、國分功一郎氏の新著、「手段からの解放~シリーズ哲学講和~」(國分功一郎著 新潮新書 2025年1月20日発行 本体880円)を参考に、「酒を悪者にしない『哲学』」について、さらに深く探求してみたいと思います。今回は、いよいよ「後編」です。 【崇高について】 カントによれば「崇高」とは、我々を圧倒する「物凄い」ものに対して抱く感情なのだといいます。例として、アルプスの雄大な景色等が挙げられているのだそうです。崇高はどこか奇妙な感情なのだといいます。物凄いものに圧倒されたのならば、それは不快であるわけですが、ところがその不快感がやがて不思議な満足感に至る……これが崇高なのだといいます。物凄いものによって圧倒されるということは、その対象が人間の認識の容量をはるかに超え出ていることを意味します。にもかかわらず、最終的に或る種の快が生まれる。それはなぜかというと、圧倒的なものを経験することで、人間が自分の中にある力に気づくからで、その結果、人間の心が活性化される……これが快に転じる理由だというのです。 このあたりの詳細は、長くなりますので省略させていただきますが、簡潔に言えば、以下のとおりです。崇高な大自然を前にして、人間はちっぽけな存在ですが、しかし人間には大自然をも包み込む理念を作り出す力が備わっている……自然に負けない人間性を人間は持っているのだと気づくのだといいます。物凄いものによって圧倒されているという事実が、これによって変わるわけではありません。物凄いものの経験の解釈の仕方が変わっただけです。ですから、物凄い風景自体が崇高なのではないのだと。物凄い風景に圧倒されるという不快な経験をきっかけとして、人間が自分自身を再発見するという一人芝居のような過程の中で感じられるのが崇高の感情に他ならないのだといいます。その再発見の瞬間に快があるというわけだというのです。そして、この過程で発見される人間性は道徳性を含んでいるとカントは言っているのだといいます。つまり、これは人間の目的、人間に備わっていた自分たちのあるべき姿の再発見でもあり、その意味で、崇高もまた合目的性を持つのだと。これこそ崇高の感情が、高次の感情能力の実現である所以ですと、國分氏は語るのです。 【目的からの自由-快適なもの】 ここまで四つの快の対象のうち、善と美と崇高の三つを見てきましたが、これらはいずれも高次の快に分類されます。これら三つの快に共通しているのは、いずれも目的か合目的性を持っているということでした。つまりこれら三つはいずれも、何らかの「こうあるべき」に関わっているということです。これらと比べた時、低次の快である快適なものには何が欠けているかというと、目的や合目的性に他ならないのだといいます。したがって、まずこのように言うことができるのだというのです。高次の快と低次の快とを分け隔てるのは、目的ないしは合目的性の有無である。レベルの高い快は何らかの「べき」と結びついており、レベルが低いものはそれとは無関係である。快適なものを楽しんで得られる享受の快には、目的も合目的性もない。但しここで、目的という語の二つの意味が問題になるのだと指摘し、カントの著作をもとに國分氏が作成した表を紹介するのです。 <カントの著作をもとに國分氏が作成した表>
  欲求能力(カント「実践理性批判」より) 感情能力(カント「判断力批判」より)
能力の高次の実現 ➁端的に善いもの:道徳的存在者としての人間の目的
形式(定言命法)
➀美しいもの:目的なき合目的性
崇高なもの:人間性という目的
能力の低次の実現 ③間接的に善いもの:設定された目的にとって手段として有用なもの
内容(生存、安楽な暮らし等)
目的-手段連関
④快適なもの:享受の快
欲求能力と感情能力のそれぞれに高次と低次があるわけですから、全部で四つのケースが考えられるのだといいます。数学の座標平面に倣って、これらを四つの象限に配置したのだと。右上の第一象限が高次の感情能力(①)、左上の第二象限が高次の欲求能力(②)、左下の第三象限が低次の欲求能力(③)、右下の第四象限が低次の感情能力(④)です。四つの快の対象は、当然次のように配置されるのだといいます。美と崇高は第一象限(①)に、善は第二象限(②)に、そして快適なものは第四象限(④)に。表にしてみると、四つの快の対象が四つの象限に均等に配置されていないことに気づきます。つまり、第三象限(③)の低次の欲求能力は、快の対象ではないとされているのだというのです。低次の欲求能力の実現は快をもたらさないのだと。カントは、低次の欲求能力の実現がある種の「満足」をもたらすという言い方をすることがあるのだといいます。「満足」は「快」よりも広い意味で用いられている語であり、四つの快の対象もまた「満足」の語でしばしば言い換えられます。しかし、重要なのは、快適なものが善や美や崇高と同じ用語で説明されており、低次の欲求能力はその用語では説明されていないということだというのです。それはなぜかを、國分氏は次のとおり説明しています。そもそも低次の欲求能力の実現とは何だったでしょうか、と。先には、気持ちよくなるからという理由で人に親切にすることという例で説明しましたが、第三象限は、カントが言う意味で倫理的でないこと全てを含んでいるのだといいます。我々は日常のほとんどの場面において、カントが求めるようには振る舞っていません。つまり、我々の日常の振る舞いのほとんどは、この第三象限に位置づけられるわけなのだというのです。カント自身は低次の欲求能力について、「あらかじめ設定した何らかの目的を達成するのに役立つから善い」という理由で何事かを為すことと言っているのだといいます。「あらかじめ設定した目的」とは、たとえば生存とか安楽な暮らしといったもののことなのだと。いい会社に入りたいから受験勉強をするのは低次の欲求能力の実現です。「いい会社に入る」という目的のために、受験勉強が手段として有益であると考えられているからだというのです。 厄介なのは、たとえばリラックスしたいから酒を飲むのも低次の欲求能力の実現であり、第三象限に位置づけられるということだといいます。しかし、酒という快適なものを享受して得られる快は第四象限に位置づけられていました。ここで事態を整理する必要があるのだと國分氏は語ります。快適なもの、享受の快そのものは確かに第四象限に位置づけられますが、しかしそれを手段として欲求する行為そのものは第三象限に位置づけられるのだと。その意味で、第四象限と第三象限は強く結びついているといえると語るのです。空腹の中で食事を求める時、人は第三象限におり、そして空腹を満たすという目的のために食事という手段が得られた時、人は何らかの「満足」を得ますが、それは目的達成の満足だといいます。しかし、その後、食事を食べながら得られる快は、目的達成の満足とは別物です。その食事は目的が達成されたから美味しいのではないのです。食事は目的達成のために手段として有用だから美味しいのではなく、ただ単に美味しいのだと。また、嗜好品の定義が「栄養のためでなく、味わうことを目的にとる飲食物」であったことの意味もここから分かるのだといいます。快適さを得ようと嗜好品を求める時、確かに「味わう」ことは目的です。実際に入手できたならば、目的達成の満足もあるでしょう。しかし、実際に嗜好品を味わっている時には、もはや目的は関係ありません。嗜好品はただ直接に快適であるのだというのです。 こう考えてくると第三象限と他の三つの象限の違いが明確になってくるのだといいます。第三象限は目的だけでなく手段の概念も含んでいます。ある設定された目的のための手段として有用なものが、この象限の対象とする善であるからです、と。カントはこれを「間接的に善いもの」と呼び、第二象限の「直接的に善いもの」(端的に善いもの)から区別しているのだといいます。直接的に善いとは、すなわち、何かを手段にすることがないということです。人間のあるべき姿は、善いものだから追求される善いものであるわけだというのです。第一、第二象限も目的ないし合目的性の概念を持っていましたが、第三象限はそれらから明確に区別されねばならないのだと。それは、第三象限だけが手段の概念を持っているからだといいます。手段の概念こそ、第四象限と第一、第二象限を説明する用語、すなわち快が、第三象限には適用されなかった理由を説明するものです。四つの快の対象は全て直接に人を満足させますが、ところが第三象限、間接的に善いものは、「これはあの目的を達成するための手段として有用である」という仕方でのみ、人を満足させるのだといいます。第三象限で問題になるのは、目的―手段の連関であるといってもいいでしょう、と。第三象限において行為する時、我々は必ず何かを手段と見なしています。何かのために何かが善いという考え方そのものが手段化をもたらします。第三象限を特徴付けるのは、他の象限には見られない手段化という性質に他ならないのだというのです。第三象限の持つ手段性は他の象限と比べた時に際立っているのだといいます。第三象限だけが、何かを、何かのために役立つという視線で眺め、そして手段化する。國分氏は、手段化には大きな危険がつきまといますと指摘し、その危険については後述するとして、ここでは次の点に注意を促しておきたいと語っています。手段化の危険を持つ第三象限と隣合わせである……つまり同じく低次の能力の実現である……第四象限は、その第三象限との強い結びつき故に、第三象限によって汚染され、手段化されてしまう可能性があるという点ですと語るのです。 目的からも手段からも自由であるはずの第四象限は、第三象限によって汚染され、手段化される場合があるとはどういうことかを、國分氏は「健康」を取り上げて説明しています。健康は直接に快適なものです。ところがこの健康の直接性はたやすく間接性と関係づけられてしまうのだというのです。健康が善いものとされるや否や、それは手段化されるのだと。この場合、複数の目的および手段の連なりが即時に想起されます。たとえば、長寿を全うするとか、定年まで働くとかいった目的に健康は手段として有用でしょう、と。そしてその健康もまた目的として考えられますから、そのためには日常生活のあらゆるものがこの目的に奉仕するための手段として考えられることになるというのです。健康はそもそもは直接に快適なものでした。健康である時、人はその快適さを快として享受する。けれども、それが目的―手段連関の中に置かれるとどうでしょうか、と。健康であることは目的達成の満足において捉えられることになるのだといいます。「私の健康は、私が善いものを実現したことを意味している」という満足です。もちろん、この満足を得つつも、同時に、健康がもたらす直接の快適さを享受することはあり得るでしょう。しかし、その享受の快は目的達成の満足によってどこか不純なものにされているのだといいます。これが國分氏の言う、第三象限による第四象限の"汚染"に他ならないのだというのです。 【享受の快の消滅……そして依存症と違法薬物の問題】 第四象限は第三象限と強く結びついているけれども、両者を混同してはならないということの意味が、この例でご理解いただけるのではと國分氏は語り、ここから手段化の危険について考えることができるのだといいます。第四象限の享受の快は実は儚いものなのだと。いつだってそれは第三象限に飲み込まれる可能性に晒されているのだというのです。つまり、何もかもが、何らかの目的のための手段にされてしまうのだといいます。特に、アルコール飲料は容易に手段化するのだと。それが酔うために飲む状態なのだというのです。お酒を楽しむ行為そのものは目的からも手段からも自由であるのに、それが酔うという目的のための手段にされてしまう。第三象限に飲み込まれてしまう。もちろん、つらい時に酔うためにお酒を飲むことがあってもいいでしょうし、酩酊状態そのものだって快適なものの一つでしょう、と。しかし、アルコール飲料の場合、第四象限の手段化は甚大な帰結をもたらす場合があるのだといいます。それがアルコール依存症なのだと。アルコールを楽しむことも、酩酊状態を楽しむこともなくなり、何か日常の、あるいは過去のつらさから逃れるためにアルコールを酩酊のための手段として用いることが継続的に行われている場合、その人はアルコール依存症に陥っているのだというのです。これは享受の快が消滅し、アルコールを巡る全ての行為が手段化した状態で、もう明らかに病的な状態なのだと。そして本人がそこから抜け出したいと思っても容易に抜け出すことはできなくなり、手助けが必要になるのだといいます。アルコール依存症に陥るとアルコールが楽しめなくなるからといって、アルコールを楽しむよう努力すればアルコール依存症から回復できるわけではありません。しかし、アルコールを楽しんでいる人が、アルコールを楽しんでいられることは大切なことだとはいえるのだと、國分氏は断言するのです。 第四象限が第三象限によって完全に飲み込まれた時、享受の快は消滅しています。つまり、楽しむということがそこから消えているのだといいます。たとえば、快適さをもたらすはずの嗜好品は、その時単なる手段になっているのだと。単なる手段になった嗜好品。目的に奉仕するだけになった嗜好品。先に述べた通り、アルコールはそのようなものになり得ますが、もう一つ忘れてはならないものがあると國分氏は語るのです。それが違法薬物、いわゆるドラッグですと。ドラッグは嗜好品に分類されうるものであり、嗜好品について論じることの難しさの一つが実はここにあるのだといいます。嗜好品はドラッグと簡単には切り離せない。だからこそ、嗜好品に対する批判は根強いとも考えられるのだというのです。依存症をもたらしうるし、そもそも健康に悪いではないかというわけです。嗜好品についての考察は、この点を避けて通ることはできないのだといいます。とはいえ、僕らは既にこの点について考えを進めるヒントを得ているのだというのです。なぜならば、ここまでの考察から、薬物を嗜好品から除外しなければならない理由が得られるからだと、國分氏は語っています。 第四象限が第三象限によって飲み込まれることにより何が起こるかというと、快適なものが手段化されると同時に、享受の快が消え去るのでした。アルコール依存症に陥った時、人はもはやアルコール飲料を楽しんでいないのだと。では、薬物に享受の快は存在するのかといえば、あるはずがなく、薬物はそもそものはじめから手段であり、手段の権化といってもいいのだといいます。薬物とは、何らかの目的、たとえば治療や苦痛緩和等の目的のために用いられる手段であり、手段以外のものではないのだというのです。医療においては、我々は手段として薬を必要としていますが、しかし薬が手段でなくなることはありえない……つまり薬物には享受の可能性はないのだといいます。そしてここが、嗜好品の代表である、お茶やコーヒー、お酒、タバコなどとの決定的な違いなのだと断言するのです。これらはいずれも快適であると同時に、享受する快をもたらし、楽しむことができますが、薬物は違い、楽しむものではなく、何らかの目的に奉仕する手段でしかないのだと語っています。 さらに、この解釈は最近注目されている、依存症についての「自己治療仮説」という理論によっても補強されるというのです。そして、依存症についての理解を求めて活動されている、医師の松本俊彦氏の簡潔な説明を紹介しています。「自己治療仮説は、依存症の本質を『快楽の追求』ではなく『心理的苦痛の緩和』と捉える理論であり、『物質依存症者は、物質使用開始以前から心理的苦痛を抱えている』ことを想定している。」(松本俊彦「心はなぜアディクションに捕捉されるのか―痛みと孤立と嘘の精神病理学」)……この解説だけで色々なことをご理解いただけると思うと國分氏は語っています。「治療」というと善いものとイメージされるでしょうから、依存症者が依存している物質―たとえば薬物―を肯定しているように思われてしまうかもしれませんが、そういうことではないのだと。依存症者は何らかの苦痛を抱えており、それに対する対抗策(治療)として、薬物等々の物質に依存している。この苦痛のことを考えなければ、依存症の治療はありえない。また、その苦痛への対抗策として、依存症者が他の方法ではなくてその物質に頼ってしまった理由や経緯や環境のことも考えなければ、依存症の治療はありえない。そういう意味なのだと語るのです。これは、1980年代半ばに提唱されたものだそうですが、國分氏は、なぜこんなことに今まで医学は気がつかなかったのかと思うと語っています。この仮説が述べているのは当たり前のことではないでしょうかと。かつての依存症についての理解がどれほど偏見に満ちていたかを示す何よりの証拠なのだといいます。アルコール依存症や薬物依存症が、幼少時の虐待など、過酷な経験と相関関係にあることも研究によって明らかにされているのだというのです(上岡陽江+大嶋栄子「その後の不自由~『嵐』のあとを生きる人たち」)。しかし、これまでの社会はただ依存症者を叱り、罰し、結果として孤立させてきたのだといいます。そして現在、世界では、一部の薬物を違法化するけれども、刑事罰は用いないという方向が大きな流れになっているのだというのです(丸山泰弘「世界の薬物政策はなぜ刑事罰を諦めたのか」)。また、松本氏は、薬物依存の苦しみを綴った元野球選手、清原和博氏の著書「薬物依存症の日々」(文春文庫)への解説の中で、イギリス人ジャーナリスト、ヨハン・ハリの言葉を引用しているのだといいます。曰く、アディクション(依存症)の対義語は、ソーバー(しらふの状態)でも、クリーン(薬物を使ってない状態)でもなく、コネクション(人とのつながり)であると。依存症からの回復において重要なのは、依存症者を叱ったり罰したりするとかではなく、人とのつながりの中で、「治療」の対象であった苦痛を分かち合い、そして和らげていくことではないでしょうかと、國分氏は語るのです。 【享受の快を剥奪された生】 薬物依存症の苛烈な経験について知れば知るほど、そこにあるのが、享受の快を剥奪された生であるという確信を強めますと國分氏は語ります。何も楽しむことができず、それどころか、日々苦痛に苛まれている…。人が享受の快を剥奪された生に陥る理由は様々で、ですから享受の快を剥奪された人生について、どうすればそうならないかとか、どうすればそこから抜け出せるかといったことを一般的な仕方で語ることはできないのだといいます。けれども、一つだけはっきり言えるのは、享受の快の剥奪はあってはならないのだというのです。しかし、國分氏がずっと気になっているのは、現在の社会が、享受の快を剥奪する方向に進んでいるのではないかということだといいます。第三象限による第四象限の飲み込みが着々と進行しているように思われ、嗜好品に対して執拗に行われている非難はそうした傾向の現れではないかというのです。「目的への抵抗~シリーズ哲学講話~」(國分氏の前著、2023年、新潮新書)でも、今の社会はチェスのためにチェスをすることを許さない社会に近づいているのではないかと指摘していたのだといいます(※哲学者ハンナ・アーレントの考察;全体主義的な支配においては、単にチェスをする場合でも、「戦略的思考を身につける」とか「勝負強くなる」とかいった何らかの目的に奉仕するのでなければならない。ただ単にチェスを楽しむのは許されない。)。アーレントは全体主義社会を目的の概念から分析する過程で、ナチの政治家ハインリッヒ・ヒムラーが全体主義社会の理想とする人間を定義して述べた言葉、「それ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間」を引いているのだというのです。誰がどういう文脈で口にした言葉であるかを隠しておいたら、このような人間は現代では望ましいとされるのではないでしょうかと、國分氏は指摘します。現代社会が求めているのは、何かをそれ自体のために行うことがない人間ではないでしょうか、と。何事をも何らかの設定された目的のために行い、何事をも手段として有用かどうかという物差しで測る……そういう人間ではないでしょうかと語るのです。もちろん、ナチが全体主義をもたらした時代と現代とでは状況は大きく異なるのだといいます。現代における享受の快の剥奪は、間違いなく、資本主義によって着々と行われつつあるものだというのです。 タバコは健康を害するのかもしれませんし、アルコールも健康を害するのかもしれません。それはそれで議論されればよいと國分氏は語ります。しかし、人間の生が目的によって占領されてよいのかどうかは、それとは全く別の問題なのだというのです。目的が持ち込まれた途端に存在することをやめてしまう享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開くのだといいます。社会がこのまま進み、すべてを手段化した時、我々はおそらく、これまで見たこともないような依存症に出会うことだろう、と。人間から享受の快を剥奪してはならない。それは人間の生すべてを目的―手段連関に従属させることだからである、と國分氏は語るのです。 いかがでしょうか?難解な部分があったかもしれませんが、アルコール飲料は決して「危険薬物の一種」ではないということが、明確に理解していただけたのではないかと思います。「薬物は享受の可能性がない手段の権化である。一方アルコール飲料は手段から自由な『享受の快』の一種である。そして、人間から享受の快を剥奪することは、決してあってはならない。なぜならば…」…これこそが、「アルコール飲料は危険ドラッグと同じ!どこか違いがあるなら言ってみろ!」という論戦に対しての、明快な答えなのだといえるでしょう。