【門前編】世阿弥「風姿花伝」に日本酒が学ぶべきこと!<前編>  今回からは、前編・中編・後編の3回にわたって、今から600年以上前の室町時代に能を大成した世阿弥の書「風姿花伝」を取り上げ、そこから日本酒について考えてみたいと思います。参考にさせていただいた書籍は3冊。「NHK『100分de名著』ブックス『世阿弥風姿花伝』」(土屋惠一郎著NHK出版 2015年2月20日発行 1,000円+税)と、「ビジネスの極意は世阿弥が教えてくれた」(大江英樹著青春出版社 2023年7月30日発行 1,500円+税)と、「風姿花伝」(全訳注市村宏講談社学術文庫 2011年9月12日発行 970円+税)です。 
           
       【世阿弥とは?そして「風姿花伝」とは?】   「NHK『100分de名著』ブックス『世阿弥風姿花伝』」の「はじめに」で著者の土屋氏は、「世阿弥が、能や、それ以後の日本の芸能に与えたインパクトは計り知れないものがあります」と語っています。まず、世阿弥は能の世界にさまざまなイノベーションを巻き起こし、演技、物語の形式、内容などあらゆる面において、今日私たちが「能」とするものの形を確立したのだといいます。また、世阿弥はその生涯のうちで多くの能の作品を書き、さらには、理想の能とは何か、その実践方法を含めて語った能楽論を遺したのだそうです。世界の演劇史を代表する劇作家と言えばシェイクスピアですが、彼が活躍する実に二百年ほど前に、多くの作品と、シェイクスピアすら書かなかった演劇論まで書いていたのですから、これは実に驚くべきことだと土屋氏は語っています。そして世阿弥は、それまで芸能に関する理論というものが存在しなかった中、約二十もの能楽論を書き遺し、そのうち最も初期に書かれたのが「風姿花伝」であり、父である観阿弥から世阿弥が受け継いだ能の奥義を、子孫に伝えるために書かれたものなのだそうです。その後、秘伝として代々伝えられ、明治時代に入って初めて多くの人の目に触れるものとなり、現代においては文庫版などで容易に手に入れて読むことができる古典となっているのだといいます。 そして土屋氏は、「風姿花伝」は、能役者にとってのみ役立つ演技論や、視野の狭い芸術論にとどまっていないと語るのです。世阿弥は、能を語る時に世界を一つのマーケットとしてとらえ、その中でどう振る舞い、どう勝って生き残るかを語っており、つまり「風姿花伝」は、芸術という市場をどう勝ち抜いていくかを記した戦略論でもあるのだといいます。さらに土屋氏は、現代経営学の発明者と言われるピーター・F・ドラッカーのイノベーション理論と「風姿花伝」との共通点を見出したのだというのです。ドラッカーは代表作「マネジメント」の中で、イノベーションとは単なる技術革新ではなく、物事の新しい切り口や活用法を創造することだと語っており、一方世阿弥は、人々を感動させる仕組みとして新しいものや珍しいものこそ花である、すなわち「珍しきが花」ということを語っているのだといいます。これは文字通り、珍しいものに人々は感動する、ということで、この「珍しきが花」が腑に落ちた時、そうか、これこそがドラッカーの語るイノベーション理論なのではないか、と気づいたのだそうです。さらに土屋氏は、「風姿花伝」を読むにあたってのキーワードとして、「関係的」という言葉を挙げています。「風姿花伝」の中で世阿弥が語ることは、観客との関係、人気との関係、組織との関係、なによりも自分自身の人生との関係、すべてにわたって「関係的」なのだというのです。決して個人の内面にとどまることなく、能に生きる人生のあらゆる場面で、自分と周りとの関係の取り方について語りながら、不安定な世界を生き抜く術(すべ)を示しているのだと語っています。  さて、約二千年といわれる長い日本酒の歴史も、さまざまなイノベーションの連続で成り立っており、造り全般についての技術革新はもちろん、飲み方や楽しみ方などの用途、保管・熟成方法、流通方法……等々、あらゆる面において、今日私たちが「日本酒」とするものの形を、長い年月をかけて確立してきたのです。だとすれば、いまから百年後二百年後の日本酒は、現在の日本酒の姿のままではない、まったく違う存在になっているかもしれないのだといえるでしょう。そして、「関係的」というキーワードは、日本酒にとっても極めて重要です。飲み手との関係はもちろん、問屋・酒販店・料飲店等との関係、地域との関係、食との関係、人気との関係、組織との関係、自分自身の人生との関係……と、日本酒は本来すべてにわたって「関係的」ですが、これまで日本酒をしっかり「関係的」に捉えた論評は、あまり存在していないようです。ならば、日本酒業界が世阿弥の「風姿花伝」から学ぶべきことは、それこそ数多あるといえるのではないでしょうか。  【「珍しきが花」とは?】 能の世界に数々のイノベーションを起こした世阿弥の革新を象徴する概念が、「花」なのだといいます。「風姿花伝」(第七・別紙口伝)には、「花といえば、四季折々の花がある。季節が変わって咲く花であるからこそ、その花は珍しいものとなり、人々も喜ぶ。能も同じである。人にとって珍しく新しいものであるからこそ、おもしろいと感じる。つまり、『花』と『おもしろい』と『珍しさ』は同じことなのだ」(口語訳)との記述があるのだそうです。これが、人気に左右される芸能の世界で勝つために、世阿弥が至った核心なのだといいます。要は、能において最も大切なのは新鮮さや目新しさを維持し続けることなのだと言っているのです。これは確かにその通りで、いつまでも同じことをしていては飽きられるというのは、能に限らずすべての芸能、さらにはすべてのサービスや製品にも言えることでしょう。老舗のお店などには「変わらない味」を売り物にしているところもありますが、実はそうしたお店でも時代に合わせて味を微妙に変えていることが多いのだそうです。  その一方で、世阿弥は次のようなことも語っているのだといいます。「一通りの間久しかるべければ、珍しかるべし(少し時間が経ち、工夫をすれば、再び新鮮なものになる)」(「風姿花伝」第七・別紙口伝)。確かに、流行というものは繰り返すもので、ファッションの世界では何十年も前に流行った服装が新鮮に感じられたり、再び流行ったりすることもあり、それはどの世界でもいえることでしょう。しかし、単に昔流行ったものをそのまま持ってくるのではなく、そこに何らかの現代的な解釈や要素を加える必要があるのだということも、世阿弥は語っているのだそうです。「ビジネスの極意は世阿弥が教えてくれた」の著者である大江英樹氏は、世阿弥が語っているのは、昔の作品をリバイバルで演じるのではなく、基本を保ちながらも、その時代に合った工夫を加えるべきだということであり、時代の変化に合わせて微妙に内容を変えることが必要だと強調しているのだといいます。そして、まさにその時代におけるマーケット志向、顧客第一主義と言っていいでしょうと語るのです。さらに世阿弥は、「ただし、様あり。珍しきと云へばとて、世に無き風体をし出だすにてはあるべからず(ただし注意することがあり、いくら珍しいものをと言っても、世の中にないような恰好や演技をする、つまり奇抜さや突飛さを強調するようなことは禁物だ)」(「風姿花伝」第七・別紙口伝)とも語っているのだといいます。単に奇抜なものは、往々にしてそれを提供する側の自己満足に陥りかねないのだと。大事なのは、今まで気がつかなかったような視点や解釈を織り込んでいくことなのだというのです。「珍しきが花」という極めてシンプルなフレーズに、顧客心理に対する深い洞察が含まれているのが世阿弥の凄いところなのだと、大江氏は語っています。  【「珍しきが花」の持続~世阿弥の4つのイノベーション~】 では、そんなイノベーションの本質である「珍しきが花」を、世阿弥は実際にどうやって持続させたのでしょうか。まず、その一つめとして、現在私たちが能を見て、「これが能らしさだ」と思っている部分のほとんどは、実は世阿弥や観阿弥が、さまざまな芸能の領域から取り入れたものなのだと、土屋氏は語るのです。たとえば、世阿弥は近江猿楽から天女舞というものを導入し、これによって能に幽玄で美しい舞の要素が加わったのだといいます。能は、観阿弥がその礎を築き、世阿弥が大成したと言われていますが、しかし彼らはまったくオリジナルなものをつくり出したわけではなく、同時代にあり、人々に好まれていた様々な芸能の領域を磁場のように引き寄せ、それらをコーディネーションして、能という一つの枠の中に、今日に続く芸術をつくり上げたのだと、土屋氏は語るのです。  次に二つめは、新しい物語のシステム(形式)を確立したというイノベーションだと、土屋氏は語っています。このシステムは、世阿弥の言葉では「二ツ切の能」と言われ、能の研究者の間では「複式夢幻能」と呼ばれるものだそうです。たとえば、前半では旅の僧が登場して場面や状況について説明し、そこに後半にキーとなる人物が登場し、僧と会話をするところで前半が終了。中入りがあって、後半は前半で出てきた旅の僧が夢を見るという内容になるのだといいます。脚本の構成は統一されているため、テーマや登場人物を変えれば、この形式の作品を量産できることになるのです。これは現代にたとえるなら、「男はつらいよフーテンの寅さん」のようなもので、マドンナ役の女優さんと旅をする土地を変えるだけで、48作もつくられているのと同様です。大江氏は、世阿弥が考えた「二ツ切の能」は、ハードは変わらなくても、ソフトを変えればいつまでも観客に新鮮さを味わってもらえるという方式だといえると語っています。  続いて三つめのイノベーションは、古典文学を視覚化するビジュアル革命だと、土屋氏は語っています。文学作品を初めて舞台上に視覚化したということで、これは現在、漫画や小説がドラマ化されたり映画化されたりするのと同じだというのです。意外にも能には創作劇というものがほとんどないのだそうで、多くの作品は「源氏物語」や「平家物語」などの世に知られた文学や和歌に典拠を持っているのだといいます。そして土屋氏は、「源氏物語」を取り上げているといっても、「源氏物語」そのものを能にしているわけではなく、「源氏物語」について、人々がこういうところが面白いと感じていることや、「源氏物語」について語られた様々な言葉の集積からうまく要素を持ってきて、それらを組み合わせて作品をつくっているのだというのです。「源氏物語」を直接引用するのではなく、連歌といった当時の文学的イベントの中で受け入れられ、濾過されてきたものを受け止めて、能をつくっているのだといいます。これが意味するところは、観客と作者との関係性の存在なのだと。世阿弥が「源氏物語」そのものではなく、連歌の世界へと広がった「源氏寄合」(連歌という一種の歌遊びのための辞書)をもとに能をつくったならば、それは「源氏物語」だけではなく、「源氏物語」を受容している多くの人たちの感覚とイメージの領域を含んだ能といえるのだと語るのです。つまり、「源氏物語」を題材にして能をつくったとしてもそれは世阿弥一人の創造力ではなく、人々の感覚の共同の場所を通してつくられたといえ、そこには、常に観客(マーケット)を意識していた世阿弥の姿勢が表れているといえるでしょうと語っています。  そして四つめのイノベーションは、「夢」という装置の導入によるメディア芸術の創造であり、物語を映し出すスクリーンとして夢を活用したのだと土屋氏は語るのです。誰もが見る夢をスクリーンに見立て、そこに映し出されたストーリーを、能舞台の上に再現してみせたのだと。これは、現代の私たちが映画やテレビといったメディアを通して物語を楽しむことと同じだといってよいでしょうと語っています。世阿弥は、そのような技術がまったくない時代に、夢というメディアを使って物語を視覚化してみせたのだというのです。単に物語をそこでやってみせるのではなく、スクリーンを通して見せようとしたわけで、そこが普通の演劇とは違うところだと語るのです。また、この「複式夢幻能」によって生み出された、創造力を喚起する方法論の一つに、「名所教え」というものもあり、これは物語の前半に、里の者が旅の僧にその土地の風景や名所を次々に説明するという形で、何もない能舞台の上に、想像上の土地の風景を出現させるというものなのだといいます。たとえば「融(とおる)」という能では、旅の僧に里の老人が、「あそこに見えるのが音羽山(おとわやま)、あれは和歌にも歌われた清閑寺(せいかんじ)、今熊野というところもあります」と、京都の山々を次々に紹介していくのだそうです。そうすることで、京都を知らない人にとっても、そこにヴァーチャルなパノラマとして京都の風景が立ち現れるのだと。そして、たいていそこには月がかかっており、月と山々の風景を描き示すことで、観客の視線を舞台上からそらし、遠く離れたところに世界が見えてくるようにするのだといいます。これを世阿弥は「遠見(えんけん)」といい、前半に入れるべき重要な要素としているのだというのです。これにより、観客もヴァーチャルなパノラマにすっぽりと包まれるようになるからだといいます。また、世阿弥が「名所教え」を発案したことで、能には、いわゆる観光旅行的な楽しみも加わることになったのだと、土屋氏は語るのです。  【日本酒の「珍しきが花」を考える】 さて、日本酒においても、最も大切なのは新鮮さや目新しさを維持し続けて飽きられないこと、つまり「珍しきが花」なのだといってもよいのではないでしょうか。発売されてから35年以上となるロングセラーで、司牡丹酒造の人気ナンバーワン商品「船中八策」も、実は毎年毎年ほんの少しずつですが変わり続けています。「船中八策」は定番商品ですので、毎晩飲んでいるファンの方に「味が変わった」と思われないようなレベルで、ほんの少しずつ品質をブラッシュアップし続けているということです。年々全国の日本酒のレベルはアップし続けていますし、新しい技術や手法なども登場してくるわけですし、時代の潮流も変わり続けていますから、35年以上も本当に何もまったく変わっていなければ、古くさい酒質になってしまい、逆に「味が変わった」「品質が落ちた」と見なされてしまいます。ファンの方々に、変わらない美味しさと言ってもらうためには、変わり続けなければならないということなのです。  また、「一通りの間久しかるべければ、珍しかるべし(少し時間が経ち、工夫をすれば、再び新鮮なものになる)」という世阿弥の言葉も、日本酒業界に当てはまります。日本酒業界の流行も、長期のスパンで見れば時代とともに目まぐるしく変わっているのです。昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長期には、糖類を添加した三増酒(三倍増醸酒)全盛の時代であり、甘ったるい日本酒が主流でしたが、昭和50年代半ば頃から起こった地酒ブーム以降は辛口が主流となり、「淡麗辛口」が高品質な日本酒の代名詞のように語られるようになります。そして平成20年頃からは、鑑評会などで受賞しやすいという理由や若い人たちにウケがいいという理由などで、香りがフルーティでグルコース濃度の高い甘口の日本酒が増えはじめ、次第に甘口の日本酒が人気を博すようになったのです。これは、味だけで見れば甘口ブームの再来のように見えますが、かつての「糖類甘口」ではなく「グルコース甘口」であり、単に昔流行ったものをそのまま持ってきたわけではなく、現代的な要素が加わっているのだといえるでしょう。そしてまた令和6年頃からは、料理に合わせにくく杯が進みにくいという理由などで、「グルコース甘口」ブームに陰りが見えはじめ、再び辛口が脚光を浴びはじめているようです。しかし、世阿弥流に考えれば、再び辛口が人気を獲得するためには、昔のままの辛口ではなく、現代的な要素が加わった新しい辛口でなければならないということになります。おそらくその新時代の辛口とは、香りはしっかりフルーティでありながら味はグルコース濃度の低い辛口というタイプになるのでないかと私は考えています。そして、新時代の日本酒を生み出す際に日本酒業界が特に注意しなければならない点は、「ただし、様あり。珍しきと云へばとて、世に無き風体をし出だすにてはあるべからず(ただし注意することがあり、いくら珍しいものをと言っても、世の中にないような恰好や演技をする、つまり奇抜さや突飛さを強調するようなことは禁物だ)」という世阿弥の言葉です。日本酒の造りにおいて、新技術や新手法などの進化が目覚ましいのは嬉しいことであり、それらを「世に無き風体をし出だす」とは言いませんが、えてして日本酒業界は新技術や新手法に頼り過ぎて、往々にして自己満足に陥りがちなのです。大事なのは、今まで気がつかなかったような視点や解釈を織り込んでいくこと。そういう意味では近年徐々に増えつつある、酒税法上の「その他の醸造酒」に分類される「クラフト・サケ」などは、日本酒業界がこれまで気がつかなかったような視点や解釈であるといえ、新時代の日本酒の一つの潮流になる可能性を秘めた存在であるといえるでしょう。  【日本酒の「珍しきが花」を持続させる】 イノベーションの本質である「珍しきが花」を、世阿弥が持続させることができた一つめは、人々に好まれていた他の様々な芸能の領域を取り入れたことでした。これを日本酒に当てはめれば、いま世の中で人気になっている様々な酒類や飲料などの領域を取り入れた日本酒を開発する、ということになります。近年日本で大きく成長しているのは、「RTD(ReadyToDrink)」であり、これは缶入りなどで開栓すればすぐに飲める状態のアルコール飲料のことで、特にレモンフレーバーのサワーや酎ハイなどが人気となっています。この領域から日本酒に取り入れたい特性は、「低アルコール」「発泡性」「すぐに飲める(缶入り)」の3点であるといえるでしょう。たとえば、宮城の「一ノ蔵」の「ひめぜんソーダ」は、まさにこの3点を兼ね備えた新時代の日本酒であるといえるのです。  次に二つめは、新しい物語のシステムを確立したというイノベーションでした。これをヒントに日本酒について考えてみましょう。新しい日本酒のシステムを確立したという意味では、平成6年に彗星のごとく現れた山形の「十四代」の事例が挙げられます。この「十四代」が確立した新しい日本酒のシステムとは、「蔵元杜氏」というシステムと、「レギュラー酒の瓶貯蔵」というシステムの2つであると私は考えています。「蔵元杜氏」とは、蔵元の子息が蔵に戻って杜氏役を担うというもので、当時としては極めて異例であり、この「十四代」の成功をきっかけに全国に多くの「蔵元杜氏」が誕生することになるのです。次に「レギュラー酒の瓶貯蔵」とは、レギュラー価格帯商品の搾り以降を、1回のみの瓶燗火入れ、急冷、マイナス5℃以下にて瓶貯蔵……等々、鑑評会出品酒並みにレベルアップさせるという仕組みです。当時1升瓶で2,000円を切る価格で発売された「十四代・本丸」は、大吟醸並みの華やかな香りと完成度で、世の中に衝撃を与えました。鑑評会出品酒に対しては、ほとんどの蔵元が実施していた手法ではありましたが、それをレギュラーの市販酒に対して実施するというのは異例であり、誰もがまったく気づいていなかったのです。ここから全国の日本酒の品質レベルが、一気にグンとアップすることになったといえるでしょう。つまり、この新しい日本酒のシステムを確立するという視点は、新時代を切り拓くほどのインパクトをもたらすのだといえるのです。  続いて三つめは、古典文学を、それを受容している多くの人たちの感覚とイメージの領域を含めて視覚化するというビジュアル革命でした。これをヒントに日本酒を考えてみましょう。この古典文学のように、現在多くの人たちに受容されている分野といえば、アニメや漫画の世界であるといえます。山口の「獺祭」がアニメ映画「エヴァンゲリオン」に登場したことで若い方々に人気となるきっかけになったことは有名ですし、三重の「作(ざく)」はアニメ「機動戦士ガンダム」に登場するザクと同名であることから、ガンダムファンに人気となったこともよく知られています。日本のアニメや漫画は、今や世界中で人気を博しており、今後もさらに広がっていくことは間違いないでしょうから、アニメファンや漫画ファンたちの感覚とイメージの領域を含めて表現するという日本酒は、今後もどんどん登場してくることになるでしょう。その際にいえる大切なことは、単に人気のあるアニメや漫画をラベル化するというものではなく、ファンの方々と蔵元との関係性を重視すべきであるということです。蔵元のみではなく、ファンの感覚の共同の場所を通しての商品化を考えるべきであるといえるでしょう。  そして四つめは、「夢」という装置の導入によるメディア芸術の創造でした。これをヒントに日本酒について考えてみましょう。世阿弥は、夢というメディアを使って物語を視覚化してみせましたが、現代ならばYouTubeやSNSなどの活用がこれに当たるといえます。日本酒の場合なら、たとえば商品の裏ラベルなどに二次元コードを印刷し、そこから酒蔵の紹介動画に飛んでもらうということなども可能なのです。世阿弥が現代に生きていたならば、きっと喜んでこのような手法を大いに活用したことでしょう。また、日本酒の裏ラベルの二次元コードから、酒蔵の所在地の名所や観光案内の動画を視聴してもらうことなども可能であり、これはまさに世阿弥が生み出した「名所教え」と同様の手法であるといえます。日本酒は本来すべからく地域密着型の地酒なのですから、このような手法によって日本酒に観光旅行的な楽しみも加わるようになれば、日本酒の世界に一層の拡がりが生まれることになるのではないでしょうか。