【門前編】「僕たちは伝統とどう生きるか」を考える!<前編>今回は、異色の発酵デザイナーとして知られている小倉ヒラクさんの新著、「僕たちは伝統とどう生きるか」(小倉ヒラク著講談社現代新書2026年4月21日発行960円+税)を参考に、土佐の高知の日本酒蔵元の1人として、自分は伝統とどう生きるかについて考えてみたいと思います。是非皆さんもこの機会に、それぞれの立場でこの問題について考えてみていただけましたら幸いです。今回は、その「前編」です。
【あなたにとって、伝統とは何ですか?】 まず、本書の「プロローグ」で小倉さんは、いくつかの理由が重なって、僕たちが「伝統」とするものを、これまでのようにつくり続けることが難しくなっているのだといいます。そして、NHK「クローズアップ現代」の「日本の“発酵食品”が世界でブームその陰で危機が」(2025年10月29日放送)で取り上げられた自身のメッセージを、短く編集して引用するのです。「これは値上がりの問題じゃない。選択肢がなくなる危機だ。僕は東京で発酵デパートメントという食材店をやっています。今年に入ってから、今までのように仕入れられないものが急激に増えて危機感を覚えています。値上げとかそういう話じゃなく、『原料がない』『資材や設備がない』『つくる人がいない』……要因が重なり、仕入れられない。これは米だけの話じゃないんです。」……秋田はハタハタ漁が壊滅的で、しょっつるがつくれない。岐阜では暑すぎてアユのなれずしが崩れてしまった。高齢のご家族だけでつくっている漬物や乾麺は、一回あたりこれくらいと上限が出てきている。お酒や調味料を入れる瓶も、メーカーが廃業したりラインが廃止されたりして、新しくつくられないものが出てきている。食を支える産業全体が限界に近づいているのだといいます。食のこと、ものづくりのこと、地方のこと。社会全体で、僕たちひとりひとりで長いあいだ軽視してきた結果が昨年、2025年に出てしまったのだと。小倉さんは、味噌や日本酒、漬物のような伝統食は海外から調達できませんから、もし国内でつくれなくなったら、いくらお金を積んでも手に入らなくなるのだというのです。そして、今起こっているのは値上げの問題ではないのだといいます。選択肢そのものがなくなり、自分たちの伝統を失う危機なのだと語るのです。 このメッセージを読んでどう思いましたか?と小倉さんは問いかけます。共感してくれる人もたくさんいましたが、「しょうがないんじゃない?そもそも伝統的な食べ物なんてなくたって私は困らないし」という意見もあったのだといいます。そして正直に言うと、どっちの意見も「もっともだ」と思うのだというのです。この40年で、味噌・醤油・酒などの醸造蔵の数は3分の1以下になってしまったのだといいます。みんなで伝統「ではないもの」を選んできたのだから、なくなっていくのは必然ではないのか。この状況を引き起こしたのは、環境問題でも人口問題でもなく、僕たち自身の意志による「選択」の結果ではないのか。……だとしたら、何がなくなってもすぐに慣れる。目の前にある、ボタンを押せば手に入るものから自分の好きなものを選んで生きていけばいい。いちいち自分が使うものの背景を考えている時間なんてないし。そう思う人の気持ちも分かるのだといい、なぜなら自分もかつてはそういう生き方をしてきたのだからと、小倉さんは語っています。しかし、数年後、気づいたらかつて当たり前に選べていたものが、種類は何分の1かになり、値段は数倍になっている。それこそがいま、僕たちが迎えつつある危機なのだというのです。 かつて東京でデザイナーをしていた小倉さんは、身体を壊し、同僚だった味噌蔵の娘のすすめで発酵食を摂るようになり、山梨にある彼女の実家の味噌蔵を訪ね、そこから微生物の世界に魅了され、いまは発酵の専門家として活動しており、全国各地の発酵文化を調査しているのだといいます。そして、小倉さんの出会った「日本」の顔は、教科書やニュースに出てくるような「日本」の顔、〇〇であるべきだ!と詰め寄る厳しい顔ではなく、〇〇であっていてほしい、と願う穏やかな顔だったというのです。マスコミや学校で言われる抽象的な「あるべき日本」とは別に、寒い雪国から南国の離島まで、様々な土地で暮らす、具体的な個人の感じてきた「様々な日本」があったのだといいます。そして、小倉さんが恋したのはまさにその、顔や暮らしの見える「様々な日本」だったのだというのです。そしてあらためて、「僕にとって、あなたにとって、伝統はどんな存在ですか?」と問いかけます。小倉さん個人としては、こう考えるのだというのです。日本各地には素晴らしい伝統が残っている。それを活かした、より良い未来の社会をつくっていきたい。伝統を失った未来よりも、伝統を活かした未来のほうがいいぞ!そう確信しているのだといいます。小倉さんは、モノやコトを生業にしている同年代の友人の多くが自分同様に、社会に出た後で「自分の時間軸より長く続いてきたもの」に興味を持って生き方を変えていたことにも共感したのだというのです。「親から蔵を継いで、この街がずっと続くかわからないし、味噌つくるのがそんなに儲かるわけじゃないけど、でもこの仕事をやっていこうと決めている。そうやって自分が決めたのには、うまく言葉にできないけど理由があるんじゃないかな。」……山梨の味噌蔵を継いだ友人のこんな言葉が、この本を書いてみようと思ったきっかけなのだといいます。親世代が過去のものとして退けてきたように見える「伝統」を、自ら進んで引き受ける各地の新世代たち。彼・彼女らが、そして僕自身が予感している未来はどのようなものなのか。あなたも一緒に考えてみませんか?と、小倉さんは語るのです。 ★本書で扱う伝統の領域 小倉さんは、「伝統」という言葉が指し示す範囲が広いため対象を限定し、本書で「扱う領域」は、「食や工芸などのものづくり」「ローカルな伝承や信仰」といった、国家やグローバル市場によって権威化されていない伝統(これを小文字の伝統と名付けるのだと。詳細は後述。)なのだといいます。その代表が、現代に至るまでその価値が顧みられなかった小倉さんの専門領域の発酵文化であり、それ以外にも、20世紀前半に見出された地域の民衆的工芸、民藝など工業分野も扱うのだというのです。ちなみに、「茶道や能などの芸事」や「国家規模での神話や信仰」については、「扱わない領域」になるのだと語っています。 【大文字の伝統と小文字の伝統】 まず小倉さんは、伝統が成立した文脈について紹介するのです。伝統の系譜は2500年前の古代ギリシャに始まるのだといい、西洋哲学の源流をつくったプラトンとアリストテレスに遡るのだといいます。プラトンは伝統を、人間の理性を曇らせる悪習として全否定し、賢人は過去に囚われることなく、本来あるべき理想を叶えるべきだとし、その世界観は、「〇〇すべき」に基づいているのだというのです。一方アリストテレスは、多数の人々が経験に基づいて約束をし合うことでできた慣習には価値があり、慣習が積み上がっていくことによって善い世界ができると説き、その世界観は「〇〇であってほしい」なのだといいます。プラトン流の神を代理する賢人によって治められる国家か、アリストテレス流の時間を積み重ねて成立した秩序によって治められる国家か。この対立に「伝統」の意味が現れているのだというのです。後者のアリストテレスモデルでは「手渡していくこと」のプロセスそれ自体に価値が宿っており、何が世界を善くするのか、その答えは時代によって、場所によって移り変わっていくのだといいます。 続いて、伝統が人に害をなすバッドサイドの歴史について語るのです。同じ文化や言語を共有し、近しい遺伝子による「血統」で結ばれた一つの民族。その民族が住むひとまとまりの場所としての国家。それまでになかった新たな「物語」を人々に信じさせ、「国民」として団結させるために「伝統」が必要とされたのだといいます。その結果、ナチス・ドイツは、アーリア人と区別するために、昨日まで隣り合わせに住んでいたユダヤ人を「私たちと違う存在」として抹殺することが正当化されたのだというのです。これは21世紀に至っても残念ながら継続中で、ユダヤ人の悲願である自らの土地―イスラエルの成立のために、隣人のパレスチナ人が殺され土地を奪われ、かつて同胞だったイランの街が爆撃される様子を、僕たちは目撃しているのだと語っています。このような流れから小倉さんは、「退けられるべき伝統」と「未来に活かしたい伝統」を選り分けたいとし、まず真っ先に退けられなければならないのが「血統」だと語るのです。しかし小倉さんの考える「家」は、「血統」に紐づいてはおらず、紐づいているのは「空間=場所」で、発酵という伝統がインストールされているのは、蔵と、蔵が成立するための川や森という空間なのだといいます。その空間で、味噌や酒を醸すという「つくる」行為を通じて、空間に蓄積された100年単位の時間の流れに一時的にアクセスする。人間は個人で「伝統」を所有することはできない。伝統を仕事にしているといっても、それはあくまで自分が現役で働ける数十年という「一時レンタル」なのだ。ならば、家の主体は「血」ではなく、「手」なのだと語るのです。人と人とが何かを受け渡す、その「あいま=空間」に宿るのが伝統であり、「あいま=空間」は単に物理的な場所を指すわけではなく、そこは時間と共に連続してきた「人」の行為が充満する、歴史という文脈で編まれた空間なのだといいます。行為と文脈に接続されていれば、血統関係なく誰しもが「家」の住人になれるのだというのです。……しかし、伝統はときに「悪いもの」として機能するのだといいます。一部の権力のために、ある民族全てを根絶し、ある民族がいた記憶を抹消する。生身の人間による行為に満ちた「あいま」が消えたとき、人と人は隣り合うことをやめ、暴力に向かい合わせられ、伝統の名目のもとに、誰かの伝統を根絶やしにしようと争い始める。こうしてローカルな共同体の寄せ集めだった世界は、いくつかの大きくて強い国とたくさんの小さくて強くはない国のパズルになったのだというのです。その渦中で、伝統は「強い国」をつくるための物語装置になり、強い国が使い方を誤った時、伝統は他の国や民族を滅ぼすほどの「兵器」となるのだと、小倉さんは語っています。 そして小倉さんは、歴史の過ちを繰り返さずに過去から受け継がれてきた文化や知恵を活かすために、伝統を二つに区分しようというのです。一つは「大文字の伝統」“TRADITION”で、それは強さに向かう伝統だと。権威を生み出し、少数派や弱いものを従わせる伝統であり、使う主体も範囲も大きく、かたちを崩すことはできず、覇権としての秩序をつくり出すと同時に少数者の抑圧としても機能するのだといいます。もう一つを「小文字の伝統」“tradition”と名づけ、それは弱さから生まれる伝統だと。権威に呑み込まれないよう、流れるようにかたちを変える伝統であり、逆らえない大きな流れの中でも、自分のアイデンティティを見失わないための小舟のようなものだというのです。大文字の伝統は「〇〇すべき」という強制的な命令。小文字の伝統は「〇〇であってほしい」という自律的な願い。大文字の伝統は、唯一の答えを生み出す求心力。小文字の伝統は、多様な答えを生み出す遠心力。大文字の伝統は、文字と血に宿る。小文字の伝統は、行為と手に宿る。この二つの伝統が蛇のように絡み合いながら世界は構成されているのだといいます。そして、大文字の伝統による弊害は過去から学び、そのうえで、これまで見過ごされてきた小文字の伝統の価値を見直す……これが今この時代を生きる、他ならぬ僕の生き方だと小倉さんは語るのです。 【「歴史」の誕生、さびしさの地平融合】 続いて小倉さんは、伝統を成り立たせる歴史について語っています。伝統と聞くと過去を正確に再現して「守る」ことをイメージしますが、しかし過去を現代と異なる時間とみなす認識は意外と新しいのだというのです。そして、ドイツの哲学者、ハンス=ゲオルク・ガダマーの思想を紐解きながら、守るだけではない創造的な伝統を、小倉さんは考えていきます。ガダマーの思想とは、端的にいえば、現代人には昔の人のことはよく分からないけれど、分からないなりに解釈すれば、それが伝統になるのだというのです。過去を過去だと認識しながら、現在と戦い、未来へアップデートされていく。その創造性に向かう道筋を示すのが、ガダマー思想の核心だといいます。過去を理解したいが、過去に生きた人のようにはできないという乖離を、ガダマーは無理に埋めようとはしないのだというのです。ここから彼は、解釈行為自体に「歴史」を導入するのだといいます。解釈が変遷していったプロセスそのものに着目し、世代を超えた伝言ゲームの中で「共通して伝わっているもの」をエッセンスと見なしてみるのだと。ある時代に起こったイベントが他者によって解釈され、その解釈が他の解釈とシンクロしながら伝承されていき、時間の蓄積によってある一定値の認知を得たとき、伝統となるのだというのです。 そして、様々な解釈の履歴をたどり、自分の直観に輪郭を与えていくことが、ガダマー解釈学のキーとなる概念、「了解」にたどり着くプロセスなのだといいます。過去に生まれた表現や文化に対して「気になる」ことがあるとすれば、その直観はどこからくるのか、「了解」の種はどこで蒔かれるのかというと、それは「先入観」なのだというのです。一般的に先入観は、物事の正確な理解を妨げる悪しきものという認識があるかもしれませんが、全ての人間は経験と環境に影響を受け、育った時代と社会に制約される、つまり先入観をゼロにせよというのは、自分と外界の関わりを一切断てということに等しく、それは不可能なのだと。先入観も自分の一部であると考えるところから、「理解」でなく「了解」の道が開けてくるのだといいます。先入観によって違う時代の出来事に違和感を抱いた瞬間―それこそ過去に「語りかけられる」ということであり、伝統の価値が最も輝く瞬間なのだというのです。この瞬間、先人の立つ過去の地平と、自分の立つ現在の地平が「先入観」によって対決させられ、違和感の正体を解釈していくうちに「了解」が起こるのだといいます。それは過去を正しく「理解」するということではなく、過去という「わからなさ」をきっかけにして、新しい考え、新しい表現、新しい創造が生まれるということなのだというのです。このとき、過去と現在という二つの地平が融合し、未来が現れるのだといいます。これこそ、ガダマー哲学の真骨頂ともいえる「地平融合」の概念なのだというのです。そして、ここでポイントがあるのだといいます。「理解」は自分の意識の中で自己完結しており、そこには呼びかけと応答がない、自分の中で腑に落ちたらそこでおしまいなのだというのです。しかし「了解」は意識だけでは完結せず、そこには過去からのメッセージを受信する生身の自分がいるのだといいます。了解は知っているだけではできず、時間をかけて自分ごととして引き受け、さらに自分の解釈を発信しなければならないのだというのです。了解は、身体で受け止め、解釈で返す応答のプロセスであり、そしてその応答もまた、自分の生きる時間軸を超えてやりとりされるのだといいます。小倉さんがガダマーに、「あなたのメッセージは、私にとってはこのように聴こえました」と応答すると、故人であるガダマーが直接「いいね!」とスタンプを送ってくれることはないのだと。では誰が応答してくれるのかといえば、驚くなかれ、応答は未来から返ってくるのだと、小倉さんは語るのです。 【発酵~見えないものとつむぐ伝統~】 続いて小倉さんは、小文字の伝統を体現する発酵について語っています。そしてまず、西アジアと中央ヨーロッパの境界に位置する小国ジョージアを、ワインの文化が生まれた最古の地のひとつとして紹介するのです。ジョージアでは、他のワインの主要産地では見られない、独特な製法でワインを醸すのだといいます。ポイントは二つで、まず他の地域では見られない在来種のブドウが数多くあり、その中には森に自生する野生のブドウを使うところもあるということ。もう一つは、「クヴェヴリ」という地下に埋められた大きな素焼きの土甕でワインを発酵・熟成させることだと。驚くべきことに、8000年前にできたこの製法が21世紀になってもその原型を保ったまま続けられているのだというのです。しかしその伝統も、ほんの数十年前に消滅の危機にあったのだといいます。ジョージアは中世より東西の両方から侵略を受けてきた土地であり、中世にはモンゴル帝国、近世にはトルコ、そして現代ではロシアへの併合を受け、1991年に旧ソビエト連邦が崩壊するまで、独立国家として存在した期間がほとんどないのだというのです。1930年代、旧ソ連に併合された後、ジョージアの伝統的なワイン醸造は共産党の農業政策によって消滅寸前となったのだといいます。共産主義の外圧の中で、ジョージアワインはどのように生きのびたのか?わずかに所有を認められた庭のような土地に、なじみのあるブドウ品種を植え、自家消費用のワインをひっそりとつくり続けたのだというのです。古いワイン産地では、森に自生する山ブドウを使って仕込んでいたため、共産党による接収を免れたのだといいます。ジョージアの伝統はアンダーグラウンドに潜って息も絶え絶えにソ連時代を生きのびたのだというのです。 領土を奪われたジョージアの人々にとって、風土から生まれたワインこそが絆だったのだといいます。ブドウでつながり、クヴェヴリで受け継がれるアイデンティティ。彼/彼女たちにとってワインは単なる飲料ではなかったため、だからこそ共産主義による圧力の中でもなお自らのワインを地下に隠し、次の世代が復活させたのだというのです。ジョージアのワインの近代史は、小文字の伝統が何であるのかを僕たちに教えてくれるのだといいます。それは、覇権国によって創られる「大文字の伝統」の対極にあるものであり、権威のために強調する大文字に埋もれてしまうものを、未来に向かって押し返すものだというのです。共産主義が掲げる人類の進歩という普遍の大文字によって剥奪されそうになった固有性を、ワインという小文字で押し返すのだと。大文字の伝統は往々にして政治的な言葉やイデオロギーの姿で現れて、「〇〇すべき」と人々の言動を強制するのだといいます。強制された小文字の側は同じ土俵―強制力を持ったイデオロギー―で大文字を押し返すことはできないのだと。その方法で対峙すれば、小文字は存在ごと滅ぼされてしまうだろうというのです。文明が生まれる以前から行われてきたであろう、小さな集団の中で共有されてきた「口伝の伝承」もまた、大文字の圧力に抗い続けるには弱いのだといいます。しかし、ジョージアワインはしたたかに生きのびたのだと。そして再びジョージアの人々に支持されたのだというのです。古代から反復されてきた口伝の伝承→成文の伝統の回路には、実は他の分岐があるのではないかといいます。ジョージアのワインの復活はいったい何を意味しているのだろうか、と小倉さんは問いかけ、それは「つくる」ことによる伝承だと語るのです。小文字が大文字の併合を逃れてアイデンティティを失わないための伝統。言葉を封じられても身体による行為を介して未来に「手」で渡す伝統なのだと、小倉さんは語っています。 冷蔵庫もステンレスタンクも空調設備もない8000年前に、しっかりアルコールをつくり、時間の経過とともにかぐわしく熟成していくジョージアワインができあがった背景、素焼きの容器を地下に埋めること、野生のブドウを仕込んで熟成させることには合理性があるのだといいます。土の中の方が季節に関わらず温度が安定し、さらに素焼きの甕にはたくさんの気孔があって酸素を通すため、中の液体はゆっくり酸化し、野生のブドウの渋味や酸味を和らげる効果があるのだというのです。微生物を観察し、自分たちの「いま持っている技術」でできることを追求した結果の合理性だといいます。その合理性には、現代のそれと条件が違うゆえに、現代では思いつかない発想と美しさが宿っているのだというのです。ソ連から独立した後、若い醸造家たちが再びつくりはじめたクヴェヴリ製法のワインは「復活」したのではないのだといいます。8000年前から絶え間なくつくり続けられてきたため、今もつくれるのだというのです。つくり続けられるプロセスの中で、先人たちの蓄積されてきた知恵が伝達され続けてきたのだといいます。これは、ローカライズされた科学やエンジニアリングの履歴なのだと。この土地で、どのように世界を認識してきたのかを「了解」するために、ワインを「つくる」ことを伝承してきたのだというのです。8000年にわたる「つくる」の伝承は、どんな大国もマネすることができないのだといいます。知識としてだけだったら「理解」することは可能だろうと。しかし、そこにはクヴェヴリをつくる土がない。クヴェヴリをつくる技術がなく、その技術を育てる工房がない。山に自生するブドウがなく、ブドウや容器に付着する微生物がいない。何より人々がクヴェヴリの独特の味わい、ワインをつくる景色を愛してきた記憶がない。つまり風土がない。風土がないところに、つくり続ける理由はないのだと語るのです。小文字の伝統には、言葉や図で伝達する知恵だけでなく、「つくる」にまつわる環境そのもの、生態系、味わいや景色などの身体による記憶も含まれるのだといいます。この複合体が、特定の地域、特定の集団の間で共有される文化を形成するのだというのです。言葉(とりわけ文字)による伝統は伝達のブレが少なく、不特定多数の人に共有しやすくなるが、共有人数が大規模になった時の権威化も起きやすいのだといいます。一方、つくることによる継承は普遍性の真逆、個別特殊性から逃れられないのだというのです。特定の環境、特定の文脈の中でしか再現性がないのだと。しかしその再現性の低さこそが、成熟した個人による社会において価値を生むのだと、小倉さんは語るのです。 そして小倉さんは、オーストリア出身の思想家、フリードリヒ・ハイエクの唱える、自由と伝統の両立について紹介しています。彼は同時代のケインズと並ぶ経済学の大家であり、国が積極的に市場に介入して経済を安定させるべきと主張するケインズに対して、市場のプレイヤーに経済の舵取りを任せるべきと主張したのがハイエクだというのです。最適な市場は「官僚が決めるもの」ではなく、各プレイヤーが全体像を知らないまま自分の顧客のためにサービスや商品を磨いていくプロセスの中でおのずから浮き上がってくるとハイエクは考えたのだといいます。マルクスとエンゲルスは、「平等」を実現するために科学に基づいた中央集権的な管理社会を構想したが、ハイエクは「自主的秩序」を構想し、各々が自主的に動くことで生まれる「差異」こそが社会を発展させると考えたというのです。政府による「因襲的伝統からの我々の解放」は迷信であると断言するハイエクは、伝統を好意的に捉えるのだといいます。市場の差異を生み出す原動力となるからだと。自由市場においては、まず「違うこと」が何より重要で、違ったものが複数存在しないと、商品やサービスの競争が存在しないのだというのです。違いが比較されることにより価値が決まる。伝統は違いの源泉になる。伝統を否定して市場のサービスを一元化することは、価値を生み出すチャンスを奪ってしまうことだといいます。「一つの人民、一つのワイン」は結局、微妙なクオリティのワインが幾種類かだけ売り場に並ぶ状況を生み出し、ワインの文化自体を衰えさせていくのだというのです。ハイエクが何より重視していたのは「新しい価値」が生まれ続けていくことだといいます。彼にとっての市場とは、異なるもの同士が相互フィードバックすることで、誰も予期していなかった価値を生み出す装置なのだといい、この価値の創発をイノベーションと呼ぶのだというのです。ハイエクが自由と伝統を擁護したのは、差異が創発しあって新たな価値を生み出す環境を守るためであったと、小倉さんは語っています。そして、このハイエクのビジョンに小倉さんは、「発酵」を足したいのだというのです。時間と介在者の効用だと。個人の理性や能力に重きを置きすぎた世界は危ういため、個人の人生を超えた時間と自分を接続し、過去の先人たちが醸してきた知恵や感覚を頼ってもいいはずだといいます。そして、目の前にある現実的な問題を解決するためには、人間以外の介在者―たとえば微生物のような―の力を頼ることもいいはずだというのです。ワインや麹のような美味しい発酵食品をつくることはもちろん、微生物の力を借りればコストのかかる廃棄物を分解してエネルギーを作り出し、価値に変えることができるのだといいます。人間と微生物という「絶対的差異」が、時間をかけて過去の知恵や技術を現代に役立つ価値へと変容させていくのだというのです。ナチス・ドイツから亡命し、ソ連の計画経済を批判したハイエクは、社会主義やファシズムの「〇〇すべき」の原理からは新しい価値は生まれず、異なる人々によるコミュニケーションのないディストピアにしかならないことを見抜いていたのだといいます。そこでハイエクが見出すのは、国家による「〇〇すべき」によらない、グローバルな個人の自主的なトライアル&エラーだと。各プレイヤーの振る舞いに差異をもたらすものとして、未来に開かれた新たな意味を、伝統に与えたように僕には思えるのだと小倉さんは語るのです。そこで躍動するのは、中心ではなく周辺に向かって分散していく伝統、過去と未来を行き来しながら1カ所に固定されない伝統、プロセスによって変化することを楽しむ伝統なのだといいます。つまり小文字の伝統であると、小倉さんは語るのです。