【門前編】「日本酒の歴史」「土佐酒の歴史」

First part of the gate

【門前編】「日本酒の歴史」「土佐酒の歴史」

今回は、「日本酒の歴史」について、さらに「土佐酒の歴史」について、ザッと俯瞰しながら、重要なポイントのみ少し詳しく語らせていただくようなやり方で、お話させていただきたいと思います。

◆日本酒の歴史 <縄文〜大和時代>

●縄文時代:長野県八ヶ岳山麓「井戸尻遺跡」(昭和33年発見・縄文中期、五千年前の遺跡)にて底に山ブドウの種がついた土器が発見。山ブドウの果実酒造りか?
※かつては、縄文時代は米による酒造りはまだ行われていなかったとされていたが、近年では、縄文時代の遺跡から米が発見されたりしている。今後の遺跡発掘が楽しみ。

●弥生時代:水稲農耕が定着。米による酒造りは九州、近畿あたりが起源か?四国説も。
「口噛みの酒」:「醸す」の語源は「噛む」。「口噛み」は巫女の仕事(原点は女性)。

・この「口噛みの酒」を日本酒とするなら、「日本酒発祥の地」は九州、近畿、あるいは四国の可能性もあるということ。(2000年を超える歴史)

・新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」(2016)にも「口噛みの酒」が登場。

・最古の記述:3世紀「魏志東夷伝」(魏志倭人伝)に「歌舞飲酒ス」「人生酒ヲ嗜ム」との記述。ただし、米の酒であるかどうかは不明。

・「八塩折(やしおり)の酒」:水の代わりに日本酒で日本酒を8回仕込む(現在の貴醸酒)。出雲地方の伝説、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治。庵野秀明監督の映画「シン・ゴジラ」(2016)にて、一言だけ「ヤシオリ作戦」として登場。

・出雲神話には、「八塩折の酒」を含め、酒造りに関する記述なども多いことから、島根県は「日本酒発祥の地」と称している。

●大和時代:広まる酒造り。古事記、日本書紀、万葉集、風土記などにも見られる。
この頃の酒は、お粥状で箸で食べていたとされる。

<奈良〜平安時代>

●奈良時代:奈良時代初期、中国(周の時代)で開発された麹による酒造りを、百済から帰化した「須須許里(すすこり)」が伝承した(古事記)。米麹による醸造法が普及。

・しかし、中国と日本では麹菌の種類も製造法も違う。中国はクモノスカビ・生・餅麹、日本は黄麹菌・蒸す・バラ麹。麹を使うのは中国伝来だが、製造法は日本独自。

・律令制度が確立され、「造酒司(さけのつかさ)」という役所が設けられ、朝廷のための醸造体制が整う。酒造技術が一段と進む。

●平安時代:「延喜式」(平安時代初期編纂)には、「米」「麹」「水」で酒を仕込む方法、お燗に関する記載、造り方の違う酒(10種類ほど)についての記述。

・酒は、祭事(この時代の政治)の際のハレの日の食事に不可欠なもの。
宗教儀礼的要素が強く、滅多に庶民の口には入らなかった。

・「僧坊酒」の始まり。中世の寺院で醸造され、高い評価を受けた。

<鎌倉〜安土・桃山時代>

●鎌倉時代:京都を中心に「造り酒屋」が隆盛し始める。

●室町時代:室町初期の「御酒之日記」。現在の清酒造りの原形がほぼ整う。

・段仕込み法(2回に分けて仕込む)、乳酸発酵の応用、木灰の使用、等が明確に記載。

・この頃、清酒造りの原形がほぼ整ったことと、奈良の正暦寺(しょうりゃくじ)で、現在の酒母造りの元型ともいえる「菩提酛(ぼだいもと)」による酒造りが確立されたため、奈良県は「日本酒発祥の地」と称している。

●安土・桃山時代(16世紀):

・奈良で十石入り仕込み桶が製造。量産の先駆けとなる。寺院酒から地酒の時代へ。

・数々の地酒ブランドが誕生し、地域間、酒質、製造量の競争が熾烈に。

・今の清酒造りの原形ともいえる「諸白(もろはく)」仕込みが完成。麹米、掛米ともに白米が「諸白」。それまでは「片白(かたはく)」で、麹米が玄米、掛米が白米。

・異国文化の到来とともに蒸留技術が伝来。日本の蒸留酒(焼酎)造りの基礎ができる。

・兵庫県伊丹市の鴻池家には、慶長5(1600)年に双白澄酒(もろはくすみさけ)を造ることに成功したとの記述がある。この伊丹の酒は輸送に耐えられる品質を備えていたことから、江戸時代初期には江戸で大変な人気となり、鴻池家は豪商となる。これらのことから伊丹市は「清酒発祥の地」と称している。

<江戸時代>

●「寒造り」の完成

・江戸時代初期頃までは新酒、間酒(あいざけ)、寒前酒(かんまえざけ)、寒酒、春酒と、1年間に5回仕込まれていた。

・冬期における「寒造り」が最も優れていることが明らかに。

・雑菌の少ない冬季が、低温・長期発酵に適す。

・優秀な酒造り技術集団(農閑期の農家→杜氏集団へ)の確保の点からも。

●「火入れ法(低温殺菌法)」の開発

・保存性をさらに高めるため。

・ヨーロッパでは1876年にルイ・パスツールにより低温殺菌法が開発。その200年も前か ら日本酒業界では当たり前のように行われていたことは特筆すべき!

●「柱焼酎の混和法(アルコール添加)」の開発
歩留まりをよくし、香味をととのえ、火落ち酸敗の危険を低くする技術。

●1698年(元禄11年)には2万7000軒の酒造場があった。

●天保年間、酒造用水の重要性が広く知られるようになる。
鉄分が少なく、有効ミネラルに富んだ水(発酵しやすい硬水)が重要。(灘の宮水等。)

●江戸中期、灘酒の台頭

・海運の発達、問屋組織の確立とともに、地酒が巨大な装置産業へと発展。

・この頃、伊丹酒にとって代わり最も台頭したのが灘酒。六甲山からの急流で水車を回し精米する省力化に成功し、さらに発酵しやすい宮水も得たことによる。

・樽廻船という船に積み込み、江戸へ運ばれ絶大な人気を誇る。
 上方から江戸への「下り酒」は上等で、下らない酒は駄酒。「くだらない」の語源。

<明治時代>

●新政府の富国強兵策により、税金の徴収が強化。酒税もその対象に。自家醸造が密造とされ、完全に禁止される。

●明治11(1878)年からの酒類税制の大改正で「造石税」(製造した酒の量に課税する従量税方式)となり、造った時点での納税が義務に。鎌倉時代から存在していた日本酒の古酒(長期熟成酒)が消え去ることに。(昭和19年に蔵出税になるまで66年続く。)

●明治15(1882)年には、酒造場1万6000軒、生産量55万kl。

●明治19(1886)年、ビン詰め開始。(それまでは木樽から小壺で量り売り。)

●明治37(1904)年、日露戦争開戦、翌年日本海海戦、日本は奇跡の勝利をおさめるが、当時の国税収入の3分の1以上は、何と酒税収入(明治37年38%、明治38年39%)であった。日本酒のお陰で日露戦争に勝利したと言っても過言ではない。

●明治42(1909)年一升ビンの開発。

●明治37年、国立の醸造試験所が開設、明治43年「速醸酛」の開発。
酒の製造に化学理論が不可欠に。

<大正時代〜現代>

●大正時代:一升ビンが普及。

●昭和初期:技術革新が相次ぐ。

・竪型精米機の発明→酒米の高精白が可能になり、「吟醸酒」誕生につながる。

・ホーロータンクの登場→温度管理、微生物管理が容易に。

・協会酵母(秋田「新政」の協会6号酵母など)の採取、分離、純粋培養。

・昭和10(1935)年頃までに、酒造の近代化、効率化を迎えるのに必要な計器や機器類がほぼ出そろう。

●昭和12(1937)年日中戦争勃発、米不足に。昭和14(1939)年、米の統制始まる。
酒造場の統合始まる。日本酒の生産量激減。粗悪な「金魚酒」が蔓延。

●昭和18(1943)年、日本酒の級別制度始まる。

●高度経済成長の三増酒全盛時代から地酒ブームへ

・戦中戦後の米不足により、日本酒に醸造アルコール・糖類・酸味料などの添加が認められ、さらに高度経済成長と共に、日本酒も大量生産の時代となり、三増酒全盛の時代となる。

・昭和48(1973)年、日本酒出荷量のピークを迎えた頃、大量生産の三増酒に対するアンチテーゼとして、「地酒ブーム」が起きる。まず新潟の「越乃寒梅」が「幻の酒」としてブームとなり、昭和50(1975)年には「日本名門酒会」が発足し、「浦霞」「一ノ蔵」「梅錦」「司牡丹」等の地酒が脚光を浴びる。

●昭和の末期から平成初期にかけて、バブル期に「吟醸酒ブーム」到来も、バブル崩壊と共に下火に。しかし、この頃から全国各地で独自の新酵母開発競争(静岡酵母、長野アルプス酵母、山形酵母、秋田酵母、高知酵母等々)が起きることにより、日本酒は一気にフルーティになっていく。

●平成4(1992)年、日本酒級別制度全廃。特定名称酒の時代、そして日本酒新時代へ。

・平成6(1994)年、山形「十四代」発売開始。その後、「十四代・本丸」は、一升瓶で2,000円を切る価格で吟醸香が華やかな、芳醇旨口の日本酒として一世を風靡。「蔵元杜氏」というスタイルが、ここから注目を浴び始める。

・平成11(1999)年、福島「飛露喜(ひろき)」が発売され、「無濾過生原酒」の潮流を牽引する。

・平成13(2001)年頃には、愛知「醸し人九平治」が、酸を重視した味わいや、火入れ微発泡タイプの日本酒などで人気に。

・平成22(2010)年頃から、全量純米大吟醸酒の山口県「獺祭」がブームに。

・平成24(2012)年頃から、秋田「新政」が、ナチュラルをベースとしたクラシック&モダンな日本酒で一躍大人気に。

・その後も、日本酒業界には、続々と新たな人気ブランドが誕生。

◆土佐酒の歴史 <神話の時代>・・・現存する日本最古の書「古事記」の国生み神話

●男神・伊邪那岐命(イザナギノミコト)と女神・伊邪那美命(イザナミノミコト)の正しい結婚により国生みが行われ、まず淡路島が、続いて四国が生まれたとされる。本州や九州よりも四国は先に生まれているということ!四国人はもっと自慢してもよいのでは?
もっとも淡路島(兵庫県)には負けますが・・・

●さらに四国は生まれたときから、身一つに顔が四つあり、面ごとに名前がついたとされ、男女二組の神々に擬人化されている。伊予の国は愛比売(えひめ=可愛らしい女)という女神、讃岐の国は飯依比古(いいよりひこ=米をつくる男)という男神、阿波の国は大宣都比売(おおげつひめ=食物をつかさどる女)という女神、そして土佐の国は建依別(たけよりわけ=雄々しい男)という男神。

●建依別は「雄々しい男」の意味で、土佐は生い立ちから強い男神が守護神だということ。

<縄文〜大和時代>

●高知県の酒に関する最古の出土品は、神事に用いられた縄文時代中期の「注口(ちゅうこう)式土器」という酒器で、この頃は木の実酒であったといわれている。

●古墳時代の出土品に「提瓶(ていへい)」という酒器が県内各地で出土している。広範囲の酒造りが想像できる。

<奈良〜平安時代>

●奈良時代:土佐での酒造りの明確な記述としては、風土記の中に「土佐国仁淀川は神河(みわがわ)とよばれ、水が清らかなので大神に捧げる酒造りに用いた」との記述があり、ここでも酒が神事に用いられていたことがわかる。

・県内で酒の神々を祭った神社は、椙本神社、朝峯神社、松尾神社などがあるが、特に朝峯神社には「一夜酒」という風習が伝えられている。

・また物部川奥地の小松神社には、麦麹を使用した酒造りの記述があり大変興味深い。

・いずれにしろ大昔における土佐の酒は、神々とともに造り出され、神秘的な飲み物とされていたといえる。

●平安時代:紀貫之「土佐日記」<承平5(934)年頃>に見られるように、酒を飲む風習が日常的になっている。「土佐日記」前半は酒飲みに明け暮れる日々の記述があり、この頃相当量の酒造りが行われていたことがわかる。つまり、土佐の大酒飲みの風習と伝統は千年を超える年輪を刻んでいることになる。

<鎌倉〜安土・桃山時代>

●戦国時代「土佐物語」に、戦いの中で大いに酒盛りが行われている様子が描かれている。

・天正3(1575)年、長宗我部元親が土佐を統一。

・四国統一を目指す元親は、この頃に何と禁酒令を公布!

・しかし、すぐに禁酒令を撤回。その後元親は四国をほぼ統一。しかし豊臣秀吉の前に降伏。
再び土佐一国のみとなる。

<江戸時代>

●慶長8(1603)年、司牡丹酒造創業。山内一豊に伴い土佐に入国した深尾重良(山内家首席家老)が佐川1万石を預かる。そのお抱えの御酒屋が司牡丹酒造の前身といわれている。

●慶長17(1612)年、二代土佐藩主・山内忠義の掟書に、酒に灰を入れることを禁止する注意書があり、この頃土佐でも澄んだ清酒が造られていたことがわかる。

●慶安元(1648)年、酒屋統制令により藩内の酒屋は181軒に。

・寛文5(1665)年、商業統制の緩和により296軒となる。

・豊作不作の波は激しく、酒屋数も変動が激しかったよう。

●天和元(1681)年、酒造家再統制布告。その後、寒造り以外の新酒や兼業酒屋が禁止に。

●この頃、土佐元禄商人たちが台頭し、酒造家の中にも飛躍的に成長した者があらわれる。

・坂本龍馬の祖先でもある「才谷屋」は、この頃に備前米、備中米の良質米を購入しており、上質の酒を醸していたと言われている。

・元禄9(1696)年、「升屋」が大阪より杜氏を招き、酒の品質向上をはかっている。

●土佐の杉と大岡越前の逸話

・享保9(1724)年、土佐藩留守居役が、かの大岡裁きで有名な江戸町奉行・大岡越前守忠相に呼び出され、「近年江戸で酒の値段が高くなっているのは酒樽用の杉の高値が原因のようだが、その理由を詮議して提出せよ」とのお達しに、使者を使わし土佐藩からの報告書を奉行所に届けて一件落着したという。

・確かに当時、土佐の魚梁瀬(やなせ)の杉材が酒樽用として藩外へ輸出されていたようで、「魚梁瀬の杉に非ずば酒造り成り難し」という記述もあり、土佐の魚梁瀬杉が酒樽として天下一品であったことがわかる。

●またこの頃、豊永郷の「八幡屋」の酒は銘酒として鳴り響き、隣藩からも酒を求めにやって来たといわれている。こうしてみると、藩政中期は土佐酒の第一の品質向上期といえる。

●元来が酒造に不適なこの南国温暖の地で、まともな醸造設備もない時代、品質の高い酒を醸す苦労は並大抵のものではなかったであろうと推察される。

●藩政後期、封建体制は衰退の一途ながら、土佐藩の人口は50万台と急激に増加し、酒の藩内需要に藩内供給が追いつかず、相当量の他国酒が密輸入されていたようで、当時上等とされていた上方酒の流入もあり、再び藩内酒造家たちは品質向上に力を入れはじめる。

・安永年間に安芸の酒造家が大阪から杜氏を雇い入れた結果「上酒」となり、天明年間に高知城下の酒造家もこの酒造方法を見習い、土佐酒の品質が向上したという。

・藩政後期は、第二の土佐酒品質向上期といえる。

●鎖国日本に外国の情報をもたらし、日本の近代化の基礎づくりに大きな役割を果たした、土佐のジョン万次郎も日本酒好きであった。

・万次郎の遺した文章の中に、米国の酒より日本の酒の方がおいしいといった記述がある。

・長崎への同行者の日記に、万次郎と酒を酌み交わす記載が多いことからも、万次郎が日本酒好きであったことが推察される。

●幕末、偉人輩出県・土佐は、坂本龍馬・中岡慎太郎らを筆頭とする幾多の維新の志士たちを、歴史の舞台に送り出す。間違いなく彼らは、土佐の酒を酌み交わしながら、日本の未来を大いに語り合ったことであろう。土佐の酒が、明治維新を成功に導く原動力の一つになったといっても過言ではないのでは。

<明治時代>

●明治時代になると土佐の高知は、板垣退助・植木枝盛らに代表される、自由民権運動の闘士たちを数多く輩出。彼らも、間違いなく土佐の酒を酌み交わしながら、日本の未来を大いに語り合ったはず。

●高知県の県詞となっている「自由は土佐の山間より」は、明治10(1877)年、立志社最初の機関誌「海南新誌」創刊号巻頭に、植木枝盛が記した言葉。

・明治15(1882)年、明治政府の無謀な酒税増税に抵抗する高知県内酒造家からの依頼を受け、植木枝盛は全国の酒造家に呼びかけ、前代未聞の「日本酒屋会議」を実現。そして「酒税減額建白書」の提出に成功。

・減額に至らなかったとはいえ、植木枝盛の名は酒造関係者なら記憶に留めておくべき。

<大正時代〜現代>

●明治後期から大正時代にかけて、全国の酒の品質が格段にアップする中、土佐酒は全国レベルの品質に遅れをとっていた。

●昭和3(1928)年、「高知銘醸戊辰会」が結成され、先進地の視察や酒造技術の研究も始められると、昭和5(1930)年、第12回「全国清酒品評会」において3社が優等賞を受賞。

●昭和4(1929)年、世界的に戦争の時代と言われた激動の時代に、平和協調を掲げ、ライオン宰相・浜口雄幸が高知県出身初の総理大臣となる。浜口首相も土佐の酒、司牡丹を愛飲していた。

●昭和6(1931)年、司牡丹酒造は、軟水醸造法を開発した優秀な広島杜氏・川西金兵衛を招聘。さらに、灘の蔵が独占していた兵庫・山田錦の村米制度に食い込み、特A地区山田錦を獲得。これらにより司牡丹は、「全国清酒品評会」において3度の優等賞(1932、1936、1938)を獲得し、昭和13(1938)年「名誉賞」受賞。(全国で61蔵のみ。四国唯一。)

・ここから、高知県の軟水による酒造りには、軟水醸造法の広島杜氏が適任ということが判明し、「土佐鶴」「酔鯨」らの蔵元もこぞって広島杜氏を招くようになり、土佐酒の品質は格段にアップすることに。第三の土佐酒品質向上期といえる。

●昭和16(1941)年、高度な醸造技術を後世に残すため、全国約8,000軒の酒蔵の中から特等格27銘柄に選抜され、司牡丹は「特等酒」の指定(大蔵省主税局から委嘱された財団法人日本醸造協会が審査)を受ける。

●昭和18(1943)年からの企業整備により、当時113場あった高知県の酒造場は、原則として各税務署管内ごとに統合され18場となり、終戦を迎える。

●昭和21(1946)年、高知県出身2人目の総理、ワンマン宰相・吉田茂が総理大臣に就任し、戦後日本を立て直し復興に導く。そんな吉田首相も土佐の酒、司牡丹を愛飲していた。

●昭和39(1964)年、高知県の酒造会社は33社に。

●高度経済成長の三増酒全盛時代から地酒ブームへ
昭和50年前後から、全国的な「地酒ブーム」「淡麗辛口ブーム」が起き、その頃既に「本醸造酒」「純米酒」「吟醸酒」などを市販していた「司牡丹」「土佐鶴」「酔鯨」等の高知県の地酒ブランドは、全国から注目されて注文も増え、人気ブランドとなる。第四の土佐酒品質向上期といえる。

●昭和の末期から平成初期にかけて、バブル期に「吟醸酒ブーム」が到来し、高知県内の酒造メーカー各社も吟醸酒造りに挑戦し始める。

●平成に入り、高知県は県産米の開発や県産酵母の開発、さらに発酵技術の共有などにより、18蔵全体が年々レベルアップしていき、土佐酒は多くの品評会、鑑評会やコンテストなどにおける入賞や金賞の常連となる。現在も続く、第五の土佐酒品質向上期である。

・平成3年:高知酵母KW77平成4年:高知酵母A14平成5年:高知酵母CEL19、CEL24平成10年:酒造好適米「吟の夢」平成13年:酒造好適米「風鳴子」平成14年:高知酵母CEL11、CEL66平成15年:高知酵母AA41平成31年:酒造好適米「土佐麗」

・平成18(2006)年、高知県酒造組合の蔵元から、宇宙を旅した高知県産酵母を使った世界初の「土佐宇宙酒」が発売され、全国で話題に。(平成21年より、宇宙を旅した高知県産酒米を使用した、完全「土佐宇宙酒」に。)

・平成28(2016)年、産官学連携組織「土佐酒振興プラットフォーム」(竹村昭彦会長)設立。土佐酒の認知度の向上及びその原料となる高知県産酒米の生産振興に向けた活動を維持するため、産官学の関係者が連携し、土佐酒に新たな価値を生むための方策などを検討する場として設立されたもの。

●まとめ:土佐の歴史をひもといて見ると、その生い立ちから「建依別」という強い男神を守護神に持った土佐の国の人々は、常に土佐の酒とともに生きてきたといえる。そして幕末から近代、現代にかけて日本の基を築いた土佐の偉人たちの傍らにも、常に土佐の酒があった。土佐の歴史が、土佐の風土が、そして土佐の酒が、数多くの偉人たちを生み、育み、偉業を成し遂げさせたのである。これまで同様これからも、そうあってほしいと願う。