【門前編】 「M・ガブリエル日本社会への問い」、そして日本酒!<後編> 今回は、前回の続きの「後編」で、すでに「知日派」となったドイツの天才哲学者マルクス・ガブリエルさんが、2023年5月に来日された際のインタビュー内容を書籍化した、「マルクス・ガブリエル日本社会への問い~欲望の時代を哲学するⅢ~」(丸山俊一+NHK「欲望の時代の哲学」制作班NHK出版新書 2023年12月10日発行880円+税10%)の内容をご紹介し、欲望の時代を哲学しながら、そこから日本酒についても考えてみたいと思います。なお、この書籍は、「欲望の時代の哲学2023~マルクス・ガブリエルニッポンへの問い~」(NHKBS1 2023年8月5日放送)というテレビ番組を書籍化したものなのだそうです。【1990年代で足踏みする日本】
ガブリエルさんは、以前よりも日本は、「1990年代的」になっているのではないかと指摘します。日本はまだ自身を21世紀に置いていない、日本は今でもある程度、90年代の恩恵を享受することができていて、今後もやはり90年代の遺産によって進み続けるのだというのです。21世紀には、それだけでは不十分であり、なぜなら日本は、新たな提案を掲げて変化の時代に参入するということを、まだやっていないからだといいます。そして、新たな挑戦の兆候が見えないこと、それが今の日本に見られる最も強い不安の正体なのだというのです。そこでのガブリエルさんの提案は、当然、「倫理資本主義」だといいます。あるいは、それを「形而上学的資本主義」と呼んでもいいのだと。それは、経済活動よりも心に重点を置いた資本主義だと、まずは理解してくださいと語るのです。経済活動を、価値観や思考に基づいたものへと変換していくモデルなのだといいます。日本はその方向へと進んで行くべきだと。ただし、それは何か新しいものでなくてはならないのだというのです。日本は何が新しいのかを探しているのだと思いますが、その際、日本は発想において、過去に囚われているように見えるのだといいます。そうした視点から歴史を見直すと、発見があるはずで、これがまさに今、日本に見られるさまざまな現象の説明であり、停滞の原因の一つと言えるのだと、ガブリエルさんは語るのです。
またガブリエルさんは、今人類は、俯瞰の視点で見た時に、総じて新しい段階に足を踏み入れていると思うというのです。日本もその段階に足を踏み入れる独自のやり方を見つけ出せればよいのだと。そしてガブリエルさんが推奨するのは、独自の形而上学的、非物質的な源を見つけ出すことだといいます。つまり、まだ眠っている日本人の気質があるとするならば、日本人の気質がどのように21世紀のイノベーションの構造に貢献できるのか?と考えてみることだというのです。もちろんAIへの投資もしていますし、その方面は得意のはずでしょう、AIもテクノロジー分野ですからね、と。しかし、日本の発展の次のステップには、精神的な、そしてそのための哲学的な側面が必要だと思うのだといいます。そしてそこに、基本的に新たな経済を作り出さねばならないのだと語るのです。
【日本が「90年代」から脱するためにすべきこと】
ガブリエルさんは、一つ大事だと今考えるのは、パンデミックの間に私たちの多くは、何らかの形で目を覚ましたと言えることだと思うと語っています。そして、ガブリエルさんが非常に深く感銘を受けた経験の一つに、コギ族との出会いがあるのだといいます。コロンビアの先住民族のコギ族は、何百年も何千年も前の出来事の記憶を継承している、地球上の最古の文化を持つ、組織立った民族の一つなのだというのです。彼らは、ヨーロッパの社会、文化のありようが、徐々に自分たちの世界に近づいているのではないかと口にしたのだといいます。これをガブリエルさんは、ある意味、予言的な言葉だと受け止めたと語るのです。さらに、ガブリエルさんが先住民族のリーダーたちと開催したワークショップでは、彼らコギ族は「未来を守ること」についても話したのだといいます。彼らのあり方が、実は私たちの未来のあり方なのだと、ガブリエルさんも最近考えているのだというのです。ヨーロッパをはじめとする多くの「先進国」とされる地域の人々が、先住民族のコミュニティを既に過去のものだと思い込んでいますが、それは間違いで、彼らこそが私たちの未来なのだといいます。これは、歴史の流れ、時の流れを循環的に理解するためにとても大事な認識だと、ガブリエルさんは考えるのだというのです。ガブリエルさんは、パラグアイの先住民の詩人にも会ったことがあり、その方は私たちにある物を結ばせた上で、私たちの手を取って、時が循環していることを示そうとしたのだそうです。メビウスの輪のように繰り返されるものだ、と。そして、あなたはまだ時は直線的だと思っていませんかと指摘し、時が循環しているというのは、決して、物事がもとに戻るということではないのだと、ガブリエルさんは語ります。私たちが過去だと思っている物事が、実は未来だということなのだと語るのです。
さらにガブリエルさんは、思うにウイルスによる警鐘は重要なシグナルだったのだといいます。私たちが何に気づいたかというと、おそらく、地球全体としての意識の異なる形だと表現してもいいと語るのです。地球にそれまで存在しなかった新たな一つの意識が芽生えたというわけではなく、おそらく地球には、常に意識があったのだと。そして、こうした思考を展開することで、次に生まれてくるのが、銀河系の生物としての、現代社会に流布しているのとはまったく異なる認識のあり方、意識の持ち方だと思うと語っています。こうした感覚、認識の仕方を持つことによって、私たち自身が「地球的」になるのだと。地球的になるとは、地球に縛られるという意味ではなく、私たちの存在が、無限に一つになる認識を持つ、という意味だというのです。そして、こうした融合の感覚自体を、近代以前は、実は多くの人々が普通に経験していたはずだといいます。私たちはしばしば、近代とは、物理学の成果で私たち自身が思っていた以上にもっと広い世界があることに気づいた後の時代だと思っていますが、しかし実は、その逆の状況になっている……つまり、近代以前の人々が知っていたことを、私たちが忘れてしまった結果が生まれているのだと語るのです
【コギ族の教え、水の流れの再構築】
ガブリエルさんは、近代性とは何でしょうか?と語りかけます。銀河は数千億も存在すると私たちは聞いているにもかかわらず……多くの人々がそのこと自体は、科学的事実としては知っていますが、しかしそのような事実を、体感として身につけているわけではありません、と。「近代性」という思考の枠組みは、むしろ人々の思考や感覚の幅を狭めてしまう、限定する力として作用しているように感じるのだというのです。日本まで、飛行機で飛べばあっという間に到着しますが、しかしパンデミックがその繋がりを断ち切ったのだといいます。そのことによって、「もうロンドンから出られなくなった」というような感覚から、より地域密着型な生活へと繋がったというわけではなく、もっと根元的な、地球の目覚めへと繋がっていったと私は思いたいのだと、ガブリエルさんは語るのです。そしてパンデミックから回復途上にある今、再び、その目覚めたはずの感覚に抵抗しようとしているようにも見えるのだと。ウイルスからの警鐘を忘れて、ただ単に「パンデミック前に戻りたい」と思っている人々も多いことと思いますが、しかし冷静に考えてみてほしいのだといい、その道は既に塞がれているのだと語るのです。そして、あえて少し予言的な言葉で表現するなら、今まさに、私たちの先祖にあたる人々の思考の中に眠っていた、深いエコロジカルな思想が復活してきているのだとガブリエルさんは語っています。ここでガブリエルさんのいう先祖とは、人種などの違いを越えたすべての人類の話、先人たちであり、人類の原初においては、皆が同じ考え方を持っていたはずだというのです。氷河期から抜け出して以来、ずっと長い間、同一の世界観があり、そこで共通していた唯一の考え方が、地球は意識を持った生きた存在であるということだったのだといいます。思うにこの認識が、哲学者ブリュノ・ラトゥールが呼ぶところの「ガイアの時代」に繋がるのだと、ガブリエルさんは語るのです。
コギ族はこのような言葉も残しているのだといいます。「地球上のすべては単に水の流れなのだ。人間の行動のすべては、水の流れの再構築だということを忘れてはならない」と。その意味するところは、私たちの身体にも関わっており、体内の血流を再構築するような考え方にも繋がるもので、その認識を正しく持てなければ、健康を害することもあるでしょうと、ガブリエルさんは語るのです。こうした思考をベースに、コギ族は「水がどちらへ流れたいのかを、常に見極めなくてはならない」ということも言っていたのだといいます。川がそこに流れているのであるならば、その川の流れを変えてはいけない、水が流れる方向のままにすることが大事だという教えなのだと。もう一歩踏み込んだ表現の仕方をするなら、水が流れたい場所に、きちんと水が流れるようにすること、であると指摘します。それこそがコギ族に受け継がれてきた知恵なのだと。水の流れを変えてしまえば、地球は干上がってしまうことでしょうと、ガブリエルさんは語るのです。
そして、地球上に砂漠が生まれた背景には、こうした知恵が時に、場所により受け継がれなかった影響があるのではないでしょうかと指摘します。彼らのこの認識は実際、事実だったように私には思えるとガブリエルさんは語るのです。オックスフォード大学の優れた生物学者も、コギ族の論理と似たことを語っていたのだと。「水は命なのです。」と、ガブリエルさんは語ります。命の一部なのではなく、水は命そのものなのだと。私たちがその水と命の組み合わせの思想に真に根差すことができたならば、私が今まで語ってきたような、地球上のさまざまな状態を、どんな変化が生まれたとしても、受け入れられるのだろうと思うと語るのです。そうなれば、あそこの川は邪魔だからまっすぐな川に作り変えよう、なんて簡単な結論を出すようなことを控えるようになるのだといいます。私たちが犯している過ちで、将来改めねばならない最も大事なことの筆頭にあるのは、水を軽視することなのだと、ガブリエルさんは語るのです。そして、こうした発想自体が、新しさを含んでおり、水の文化の新しさというものに気づかねばならないのだと。新しいのは、コンクリートではありませんが、しかし残念ながら、私たちはコンクリートの文化の中で生きているのだといいます。コンクリートとは水をセメントなどと一緒に固まらせたものですから、私たちは水を取り込んで、無理やり直立するようにしているのだというのです。そして今、水が私たちに復讐しているというわけですと指摘します。こうした意味合いにおいて、私たちは元素に立ち返るべき時代にあると言ってもいいでしょうと語るのです。あらゆる物質の本質を構成している元素の意味に気づき、立ち返る思考なのだと。これこそが、私たちの未来なのだといいます。未来とは、実にシンプルな世界であり、私たちは物理学が成立した時代以前の思考、感受性を取り戻す段階にあるのだと、ガブリエルさんは語るのです。
【失われた「存在」を求めて】
ここで、「日本的なるものとは何か」という議論について、少し考えてみていただくきっかけになるテキストをご紹介したいと、ガブリエルさんにディレクターが提案しています。それは、岡倉天心の「茶の本」であり、松岡正剛さんという現代の思想家が、「茶の本」の内容を10の文章にまとめているもの(「松岡正剛の千夜千冊」2000年6月21日)だといい、これを紹介するのです。
①西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。
②いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。
③茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
④われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。
⑤花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。 ⑥宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
⑦出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
⑧数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
⑨茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。
⑩われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。
ガブリエルさんはこの10の文章を、ドイツの哲学者ハイデガーが言うところの「存在」と関連していると理解したと語っています。近代化がもたらした「存在」の喪失への嘆き……かつて日本では、天皇陛下自身が、日本という国家の中で人々の間に独特の「存在」を生み、輝きをもたらしていたわけで、ドイツもまさに同じであり、皇帝が「存在」だったのだと。そして、ある現実の経験は、日本の皆さんにとっても、ある時代までは共通の経験だったことでしょうと語ります。言葉にする必要すらない、単にその空間を共有するだけで感じられる経験であり、ある種の精神性の共有です、と。「存在」について話題にのぼることがなかったのも当然のことで、それは、人々が皆、「存在」の中に、精神の中にいたからなのだと語るのです。それは、日本だけでなく同様に、ドイツ、フランス……どこに行っても、ヨーロッパの多くの国々に同じ考え方、感覚がありますと。近代に起きた大きな変化の一つは、そうした精神性が、日本だけでなく、どこの国でも破壊されたこと、「存在」の崩壊ですとガブリエルさんは指摘しています。
こうして次の問題は、では「存在」をどう取り戻すか?ということに移るのだと語るのです。日本も今、独自の形で、まさにこの過程を経験しているのではないでしょうかと、ガブリエルさんは指摘します。それは言い換えれば、どのようにサムライの刀でもある「カット」(=切断)に、調和を生めばよいのか?ということであり、また、どのように「カット」(=遮断)と花の美を調和させることができるのか?ということ……もっと端的に言えば、どうすれば花を「カット」せずに(斬らずに)済むのか?ということだと語るのです。これは今日においてとても重要なことだと思うとガブリエルさんは語っています。なぜなら、私も含めて多くの人々が、「資本主義だけでは問題を解決できない」と気づいているからだと。だからこそ、先住民の知恵に学ぼうとする議論に参加する人々が増え始めているのだというのです。その時、日本での議論において注目するべきは、やはり日本の先祖、先人たちに関することだと思うのだといいます。各国、各地域において、ドイツ人はドイツの先住民たちの姿に、日本人は日本の過去の人々の営みに、それぞれ注目するべきなのだと語るのです。
いきなり、他国に関する議論として始めてしまうのではなく、フラットにまずは自らの先祖たちのことを振り返ってみることだといいます。そうした議論を深めていくことが、結果として、他民族のあり方や営みについて考えることにも繋がり、ひいては世界のことを考えたり、人間の生活の本質について考えたりすることにも繋がるからだというのです。こうして、最終的には、地域的な特殊性と世界における普遍性との、双方を結びつけていくことに大きな価値があるかもしれないのだと語っています。そして、その時にガブリエルさんは、経済を犠牲にして「存在」を取り戻そうなどとは提案しないのだと断言するのです。なぜなら、現在の世界では、誰もそんなことは受け入れないからだと。その意味では、私たちは何らかの形で「存在」を売り込まねばならないのだといいます。それが今のガブリエルさんの日本の皆さんへの願いなのだと。皆さんが正しく関わることになる、高度なレベルの「倫理資本主義」の第一歩と言えるかもしれないと語るのです。こうした話の流れの中で、問題は、どうやって資本主義に「存在」を売り込むのかというところに到るのだといいます。それはある意味で、プリミティブな要素を伴う行動ともなることでしょうと語るのです。軍隊が攻めて来ると思われた時の古典的な対応策の一つは「もてなすこと」ですから、まずは友好を提案する、そこで抵抗はしないのだと。抵抗は、誤ったやり方なのだといいます。柔和な姿勢で応えることで、相手を柔らかく押し返すのだというのです。ガブリエルさんは、その時に、お茶が、資本主義の欠陥に対する一つの武器になると想像してみてくださいと語っています。そして、「一杯のお茶に乾杯です。」と語り、締め括るのです。
【「水の思想」と「伝統の現代化」、そして「日本酒」と「酒道」】
ガブリエルさんがここまで語られた内容を読んで私は、もしかしたら現代の若者たちは、近代に反発しているのかもしれないと感じました。もっと言うなら、彼らは「水の復讐」に薄々気づいている、「地球の意識」からの声なき声が聴こえているのではないかということです。彼らがモノにはあまり興味を示さないにもかかわらず、伝統的なものの復活や復興等には興味を示すというのは、そういうことなのかもしれません。1990年代のまま足踏みしている日本の発展の次のステップには、日本の過去の人々の営みに注目するべきなのだということであり、それは日本における伝統的な「水の文化」の復興であり、それが「地球の意志」なのだということなのではないでしょうか。しかし、伝統的なものを過去のまま、単にそのまま復活や復興をさせればいいというのではないという点についてガブリエルさんは、パラグアイの先住民の詩人の行動で暗喩しています。それは、「メビウスの輪のように時が循環している」ということです。「メビウスの輪」とは、長い紙の紐を1回ひねってから両端をくっつけたもので、この輪の上のある地点からペンで線を引いていくと、1周回ったところはスタート地点のちょうど裏側にあたる同じ場所になるのです。つまり、時は循環していますが、まったく同じ地点に戻るというのではなく、同じ場所でありながら裏側のような、そういう場所に戻るという意味で、循環しているということでしょう。それはつまり、「伝統の現代化」という言葉で表現できるのです。
さて、以前にも述べましたが、「日本料理」は「水の料理」であり、日本酒は「水の酒」です。さらに日本文化は「水の文化」なのです。日本料理の基本となる出汁は、そのほとんどの成分が水であり、この水がマズイと美味しい出汁は引けません。そして日本酒の成分も80%は水であり、どれだけ良い米を手に入れ、優れた技を駆使しても、水がダメなら美味しい日本酒は醸せないのです。さらに、原料の米は「水稲」ですから水の管理が重要ですし、造りにとって最も大事な麹はカビの一種ですから、空気中の水分の調整等がポイントになります。まさに日本酒は、「水の酒」なのです。そして日本文化は「水の文化」だというのは、まずはやはり日本の地形や気候風土に関係しています。日本の地形は急峻で、雨が降ると川の流れは急流になり、アッという間に海にたどり着きます。このような水の流れが日本文化に大きな影響を与えたのだといえるでしょう。さらに、豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛(如水)の有名な「水五則」には、「自ら活動して他を動かしむるは水なり」、「常に己の進路を求めて止まざるは水なり」、「障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり」、「自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるの量あるは水なり」、「洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し凝(ぎょう)しては玲瓏たる鏡となりしかもその性を失はざるは水なり」とあります。この「水五則」は、まさに日本人の気質や日本文化を表現したものであるともいえるでしょう。
近年、日本料理や日本酒、そして日本文化が海外で人気を博しているのは、世界中の多くの人々が、「水の思想」や「水の文化」の重要性に気づきはじめたからなのではないでしょうか。そんな世界の流れの中において、いま日本から発信すべきなのは、日本の伝統的な「水の思想」や「水の文化」を、過去のままではなく「現代化」して、「メビウスの輪の裏側」に変換して、発信していくことが必要なのだといえるでしょう。そして、「酒道黒金流」が体現している世界観こそが、まさにその「伝統の現代化」であり、「メビウスの輪の裏側」なのです。つまり、「酒道黒金流」など、小さな米粒のような活動かもしれませんが、その活動は、日本が停滞から抜け出して未来に発展していくための一助にもなり得るのだといえ、さらに資本主義に「存在」を売り込むための一つの武器にもなり得るのだともいえるのです。……一杯の日本酒に……乾杯です!